説教『共に苦しみ、共に喜ぶ、一つの体なる教会』(Ⅰコリント12:12~27)

2017年4月30日  主日礼拝(新年度目標聖句)・説教要約

  説教『共に苦しみ、共に喜ぶ、一つの体なる教会(Ⅰコリント12:12~27)

◎4月最後の主の日を迎えました。若葉が美しい季節となりました。先週は、今年度の教会総会を開催しました。今年度の目標・課題も決まり、新たな歩むへと踏み出しました。今年度の目標聖句は「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」です。一つになることは夫婦でも家族でも難しい。まして他人の集まりである教会はなお難しい。しかし、聖書においてはそれが求められているし、それが可能である。それはなぜか。今日は、そのことを御言葉を通して学びたい。そして、教会とはいかなる所か、何を目指して歩む所なのか、教会はいかにして作りあげるのかを共に学びたいと思います。

◎今日、選んだ聖句はコリントの手紙Ⅰの12章です。この手紙は伝道者パウロがコリント教会に宛てた手紙です。コリントという町は、パウロが紀元50年頃に1年半滞在した町です。当時、コリントは人口60万人の大都市、東西に通じる貿易港で、豊かな富と文化が集まる自由で開放的な都市でした。それだけに自由で多様な考え方があり、それが教会の中に入り込み、考え方の違いや、道徳的な乱れ、信仰の不一致などの問題を抱え、教会自身が苦しんでいました。それを聞いたパウロは、自分が設立し育てたコリントの教会に宛てて何度も手紙を書き、福音とは、信仰とは、教会とは何かを教え、指導したのでした。ここには牧会者としてのパウロの姿があります。今日は、今年度の目標聖句を含むⅠコリント12章を取り上げ、教会とは何かを心に刻んで参りたいと思います。

◎今日の箇所、1コリント12:12~26を読むと、教会について3つのことが書かれています。今日は、この3つのことを心に刻みたいと思います。「教会とは何か」、まず、第一に言われていることは「教会とはキリストの体である」ということです。12:27には「あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分なのです」とあります。つまり、キリストは多くの部分からなる体であり、あなたがた教会はキリストの体なのだというのです。教会とはキリスト者の集まり・共同体です。言い換えると、教会とは、神様がキリスト者を集め、作った共同体である。しかも、イエス様をキリスト・救い主と信じる者の共同体、キリストを土台とし、キリストを主とし、キリストを頭として作られたキリスト者からなる共同体です。その意味で、教会はキリストの体なのです。

◎キリスト者は何者でしょう。12:13には、イエス・キリストという一つの霊に導かれ、洗礼を受け、イエス・キリストの霊をのませてもらった者とあります。洗礼とは水の中に沈んで古き自分に死に、水の中から起き上がり、キリストに結ばれて新しくされることです。この水による洗礼を受けた人にキリストの霊・聖霊が注がれる。これを霊による洗礼と言いますが、キリスト者とは古き自分に死に、キリストの霊を注がれキリストに従う者といえます。そのキリスト者が集められ、主を賛美し、主に祈り、主を告白し、主を宣べ伝える。それが教会です。

◎その意味で教会に集められた人々・共同体をイエス・キリストが結びつけており、教会に集う者達はイエス・キリストによって結びつけられています。だから、12:13にあるように教会は民族や身分の違いなど様々な違いを超えて分裂することなく、統一された一つの体とされるのです。その全体に流れているのはキリストの血、和解と平和をもたらし互いを赦し合う十字架の血、キリストの愛が流れている。それが全体を一つにしているのです。

◎さらに教会はキリストの体としてキリストを主とし、頭としてキリストの御心に従いキリストを模範として歩む共同体です。キリストは神のため・他者のため・隣人のため・この世のために生きられたので、教会もまた神・世・人々、特に世において小さくされている人々のために生き、働きます。鶴川北教会も世にある教会として神・世・世の隣人のために歩んできました。そのように教会とはキリストの体である。これが第一に言えることです。

◎教会とは何か。第二に言えることは「教会は多くの部分・人々から成る共同体である」ということです。キリストの体としての教会は、体が頭・手・足・目・耳・鼻・口などの多くの部分からなるように、多くに部分・人々から成っています。その部分・人々が与えられた役割・働きを懸命に果たすことによって教会は保持され維持され成長していきます。鶴川北教会も40年間守られてきましたが、それは多くの人達が働き、その役割を懸命に果たしてくださったからです。特に天に召された方々のことを思い起こしますが、お一人お一人が懸命に働いてくださったからこそ、今日があります。そのように教会は一人一人の働きによって存在することを教えられます。

◎教会とは何か。第三に言えることは「教会には弱く見える部分が必要」ということです。教会には弱い人が必要だとパウロは書きます。それはパウロの考えというよりも聖書全体の考え方です。申命記7章に、あなたがた・イスラエルの民が選ばれたのはあなたがたが他のどの民より貧弱であったとあります。聖書の神様は弱き人を選ばれます。主イエスも弱き人と共に歩まれました。パウロ自身も自分の弱さに中に主の愛と恵みを受け取りました。弱い人がいることで教会は互いに助け合い愛は深まります。それは教会だけでなく社会全体にも言えることです。一人の苦しみ・喜びをわが苦しみ・喜びとし、すべての苦しみ・喜びとする共同体、それが教会なのです。