説教『律法は人を生かすためにある』(マルコ2:23~3:6)

2017年5月7日            主日礼拝・説教要約
  説教『律法は人を生かすためにある』(マルコ2:23~3:6)

◎5月最初の主の日を迎えました。大型連休も今日で終わりますが、連休はいかがでしたか。私は九州に帰省し、家族と一緒に過ごすことができ、改めて休むことの意義と必要性、喜びを感じました。忙という字は「心が亡びる」と書きますが、人間には休養・安息が必要です。今日、取り上げた聖書の箇所では「安息」が問題になっており、その記事を読むとイエス様が命懸けで安息日の意義を取り戻そうとされているのが分かります。今日は、御言葉を通して、イエス様が何を大事にされたのか、また、私達にとって何が大切なのかを心に刻んで参ります。

 

◎今日の箇所には安息日の規定を巡って2つの記事が記されています。主の弟子達が安息日に麦の穂を摘んだことでファリサイ派の人々と主との間で問答があったことと、安息日に主が手のなえた人を癒したという出来事です。何でもない出来事のように思えますが、今日の最後の記事3:6には「どのようにしてイエスを殺すか相談し始めた」とあるように深刻な対立に発展しています。これは主の生死を分ける大きな問題であることが分かります。今日は安息日の問題を通して主の考えを知ると共に、人間の頑なさ・罪と福音の意味について考えて参ります。

◎まず、今日の前半、安息日の規定を巡る問答を見て参ります。2:23によると、ある安息日にイエス様達が麦畑を歩いておられた時、弟子達が麦の穂を摘み始めたと言います。空腹の余り弟子達は麦の穂を摘んで食べたのでしょう。麦の穂を食べること自体は律法では許されていました。申命記23章には「隣人の麦畑に入る時は手で穂を摘んでも良いが、鎌を使ってはならない」とあり、レビ記19章には「穀物を収穫する時は畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後も落ち穂を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておか
ねばならない」、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と、貧しい人に対する配慮に満ちています。律法には隣人愛の教えが流れており、それは主なる神の愛の反映であると言えます。律法の土台は愛なのです。

◎では、何が問題なのか。それはその日が安息日であったからです。安息日の戒めは出エジプト記20章と申命記5章に記されています。出エジプト記20章には「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間、働いて、何であれ、あなたの仕事をし、7日目はあなたの神、主の安息日であるからいかなる仕事もしてはならない」とあり、安息日には家族も奴隷も家畜を休ませるように命じます。それは「6日の間、主は天と地と海と、そこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別された」からです。安息日とは神に造られたものが神の祝福の元に安息する日なのです。他方、申命記5章には「あなたがたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、…あなたの神・主があなたを導き出されたことを起こさねばならない」とあり、安息日の根拠が出エジプトという救い・解放の出来事にあり、その神の恵みを思い起こす日が安息日であると記しています。いずれにしても神の愛と恵み、祝福の元に安息し、新たな命と力、愛と恵み、祝福を得る日が安息日なのです。

◎では、なぜ、ファリサイ派の人々は「なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と主の弟子達を問題にしたのでしょうか。それは安息日には労働することが禁じられていたのですが、麦の穂を摘む行為が禁じられている収穫という労働の行為とみなされたからです。何か言いがかりのようですが、安息日を守るということは神に選ばれた神の民としてのユダヤ人の義務・責任とされ、その規定を破る者には、死罪を含む厳しい罰則が科せられていたのです。ここには規定によって縛られ、自由と余裕、律法の本来の意義を失った姿があります。

◎そのような問いかけに対してイエス様は、ダビデが空腹の中にあった家臣を救うために祭司から供え物のパンを授かった話をされ、人の命を救うために律法の規定を緩やかにすることも有り得ると話し、こう言われました。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と。安息日は人のために設けられたこと、人を生かすために設けられたと語り、安息日のために人がいるのではないと教えるのです。人のために律法が定められたのであり、律法のために人がいるのではない、本末転倒に陥ってはならないと教え、諭されたのです。

◎その上で「だから人の日は安息日の主である」と言われました。つまり、人の子であるイエス様は人を、人の命を大切にされ十字架に架かり復活されてすべての人に罪の赦し・救い・平和・愛・永遠の命を与えてくださった。その意味で主こそ真の安息をもたらして下さった方・安息日の主である。そう、自身について語られたのです。

 

◎この安息日の規定を巡る問題は、次の3:1~6で先鋭化します。その出来事は、ある安息日、会堂で起こりました。会堂には手のなえた人がいて、主がどうするかを人々は注目していました。その気配を感じた主は手のなえた人を会堂の真中に立たせ、その手を癒されました。その際、主は人々にこう言われました。「安息日に律法で許されているのは、善を行なうことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と。ここで主は律法の規定に縛られて人の命を殺すことがあることを怒りと悲しみをこめて訴えました。ここには人間の頑なさ・罪があります。主はその罪を担って十字架に架かる覚悟をされました。主は安息日の主となる道へと歩まれたのです。