説教『苦悩からの救いと解放』(マルコ5:21 ~34 )

2017年8月27日                  主日礼拝説教  
説教『苦悩からの救いと解放』(マルコ5:21 ~34 )

◎8月最後の主の日を迎えました。子ども達にとっては夏休み最後の日曜日です。私も夏季休暇をいただき、家族と共に過ごし、良き休養をいただきました。先週は、夏季休暇も終えて、仕事に取り組みましたが、今日はその最初の礼拝説教です。残りの任期もあと7か月。一回一回の説教に全力を投入して参ります。

◎今日、取り上げる聖書の箇所は、マルコ5:21~34です。前回の悪霊追放の奇跡に続いて、出血の止まらない病の癒しの奇跡の物語が書かれています。5:21~43には、2つの奇跡物語が記されています。この2つの奇跡物語には、信仰とは何か、主イエスとはいかなる方かという2つのテーマ・メッセージが込められています。今日はその前半の奇跡物語から2つのメッセーを読み取り、皆さんにお伝えいたします。

◎まず、話の内容を見ていきます。冒頭の5:21には、ガリラヤ湖の向こう側に渡られたイエス様が再び戻ってこられ多くの群衆が集まって来たとあります。そこに会堂司のヤイロがイエス様の前に平伏し、瀕死の娘の病を癒してほしいと懇願します。主はヤイロと共に彼の家に向かいます。群衆がその後を追いますが、その群衆の中に、12年間、出血の止まらない女が紛れ込んでいた。そしてその女がイエス様の衣に触れたところその病が治ると言う奇跡が起こります。その話の後に、死んだヤイロの娘が生き返ると言う奇跡が続きます。今日は、その2つの奇跡物語の内、前半の、出血の止まらない女の癒しの奇跡を見ていきます。

◎この女のことについて5:25には「ここに12年間も出血の止まらない女がいた」とあります。ある注解書には、この病は「慢性の子宮出血だろう」とありました。婦人病の一つです。レビ記15章からは出血する女は汚れた者と見なされ、地域社会からも忌み嫌われ、疎外されたことが分かります。この女性は病の痛み・苦しみに加え、宗教的・社会的差別と疎外・孤独の中にいました。しかも5:26によると多くの医者に全財産をつぎ込み使い果たしたと言いますから、経済的な困窮の中にいました。治る見込みのない病に加え、経済的な困窮の中にいた。彼女は何重もの苦しみを抱え、自分の人生に絶望していたと思われます。

◎そういう時に、イエス様のことを耳にします。イエス様はどんな病も治すらしい、といううわさを聞き、主の元に急ぎます。ところが、多くの群衆がイエス様を取り囲んでいる。彼女は群衆に紛れ込み、うしろから主の衣に触れます。すると、すぐに出血がまったく止まり、病が癒されたことを自分の体ではっきり感じたのでした。主の癒しの力は絶大であり確実でした。これが彼女の人生の転換点となったのでした。

◎しかし、話はこれで終わりません。むしろ、話の重点はこの後にあります。主は、自分の内から力が出て行ったことに気が付いて、群衆の方を振り返り「私に触れたのは誰か」と尋ねます。主の癒し・救いには主の命と力が注がれます。主の救いにあずかるということは、主の命を受けると言うことです。主は救われた人を捜します。主は群衆の一人一人を見回し、触れた人を捜します。それは、触れた時に、その人の苦しみ・苦悩を感じ、その人に出会うことが必要だと思われたからです。このことは周囲の者達、弟子達ですら分かりませんでした。ここには、主が一人一人と出会う方であるということが良く示されています。

◎すると、自分に触れた者を捜し出そうとする主の気迫に促されてか、触れた彼女は主の前に進み出ます。それは、触れたとたん、12年間も出血が止まらなかった病がすぐに治ったことを知って恐ろしくなったからだと書かれています。彼女は震えながら主の前に進み出て平伏し、すべてをありのままに話しました。これは、これまで誰にも受け入れてもらえず人の目を避けるように生きてきた彼女にとって奇跡でした。

◎そのような彼女に向かって主はこう言われます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と。主は、彼女の信仰を高く評価して自信を与え、安心して元気で暮らしなさいと、命令とも約束とも言える力強い言葉で主は彼女を送り出すのでした。

◎このようにすばらしい奇跡物語ですが、ここには2つの大切なメッセージが込められていると言えます。その第一は「信仰とは何か」ということです。主は彼女に向かって「あなたの信仰があなたを救った」と言われましたが、その「信仰」とは何を意味しているのでしょうか。それは「イエス様なら必ず救って下さる」という確信、信頼を指しています。彼女の信仰にはご利益信仰的な側面がないわけではありません。しかし、彼女の思いの中には主への確かな信頼がありました。その信頼こそが信仰だと主は言うのです。しかし、その信頼・信仰は主が引き出したものとも言えます。信仰は主によって与えられた賜物なのです。

◎第二のメッセージは「主イエスはどのような方か」ということです。それは、まず主は御自分の命と力と愛を注いで私達を救い出す方であり、私達と1対1で出会ってくださり、必要な力と言葉を与えてくださる方であり、神の平安の内に行けと命じられたように生きるべき道を示してくださる方だと言うことです。