説教『人生の最後の希望』(マルコ5:21~43 )

2017年9月10日                  主日礼拝説教  
説教『人生の最後の希望』(マルコ5:21~43 )

◎先週は「振起日礼拝」を捧げ、秋の活動に向けて心を一つにすることができました。来週は早速、敬老の日の礼拝と祝会があります。ご高齢の皆さんの健康と平安、ご長寿を皆で祈りたいと思います。私達の働き・活動を常に支え導くのは神の言葉です。今日も聖書の御言葉から命と力、愛と恵みを受けて参ります。

◎今日与えられた御言葉はマルコ5:21~43です。ここには2つの奇跡物語が記されています。前回はその一つ「出血の止まらない女」の癒しの記事を取り上げましたが、今日はもう一つの「ヤイロの娘の甦り」の奇跡物語を取り上げ、主イエスとはいかなる方か、信仰とは何かについてメッセージを聞いていきます。

◎その前にどのような話かを見ていきましょう。今日の話は4つの場面から成っています。第1の場面は、ヤイロが登場する場面です。5:21によると主イエスが再び戻って来られると多くの群衆が主の元に集まってきました。その時、一人の男が主の前にひれ伏しました。会堂長のヤイロです。会堂・シナゴーグは、礼拝堂・集会所・学校・裁判所を兼ねた地域共同体のセンターです。ヤイロはその長ですから、地域でも
有力者であったと思われます。愛する娘が瀕死の重病に罹って苦しんでいる。ヤイロはイエス様に必死に助けを求めます。「わたしの娘が死にそうです。どうか、お出でになって手を置いてやってください」、そう言って必死に懇願します。娘の危機は両親の危機です。この時、ヤイロは人生の危機に立たされていたのです。それを聞いて主はヤイロと共にヤイロの家に急ぎます。そのような中で12年間、出血の止まら
ない女が主の衣に触れ、病が癒されます。主は女を捜し出し、「あなたの信仰があなたを救った。安心しなさい」と呼びかけ、女が自信を得る言葉を与えました。主は一人一人と誠心誠意出会われたのでした。

◎そのような時にヤイロの家から人々がやってきて「お嬢さんは亡くなりました」とヤイロに知らせます。それを聞いたヤイロは自分の心の中がガラガラと崩れ、絶望のどん底に突き落とされる思いだったことでしょう。さらに人々は「もう先生を煩わすには及ばないでしょう」と言います。死の前に主は無力だと暗に言っています。ところが、主はそれを聞き流して「恐れるな、ただ信じなさい」とヤイロに語りかけ
ます。「恐れるな」とは、娘の死を恐れるな、絶望するな、の意味でしょう。「信ぜよ」とは、私を信じなさい、の意でしょう。その言葉の意味は後で分かります。主はヤイロを励まし、彼の家に向かいます。

◎主はヤイロの家に向かいます。その時、主はペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子だけを連れて行ったと言います。この3人は「山上の変貌」「ゲッセマネの祈り」という重要場面でも主に連れて行かれています。この3人は後に主の証人となり教会の土台を築きます。それだけ、このヤイロの娘の甦りの出来事は大事な出来事だったのです。家に着くと大勢の人々が泣き叫んでいます。幼い子どもの死は悲しいものです。主は「死んだのではない。眠っているだけだ」と言います。主にとって死とは終わりではない、眠りである。やがて起き上がる時が来る。復活の時が来るというのです。死に対する見方を大きく転換する革命的な見方です。しかし、人々はあざ笑います。人々にとって死は終わりです。現実的な見方に支配されていたからです。復活の主を信じなかったトマスのことを思い出します。これが現実的な人間の姿です。

◎しかし、主は人々の笑いを問題とせず、皆を家から外に出し、3人の弟子と両親と共に娘の所に行きます。主は娘の手を取ります。主は娘に命と力を注ぎます。そして、「タリタ、クミ(娘よ、起きよ」とアラム語で命じます。すると、娘は起き上がり、歩き出します。娘の病は完全に治り、死から甦ったのでした。人々は我を忘れるほど、腰を抜かすほど驚きます。信じられないことが起こったからです。主はこのことを誰にも言わないように命じ、娘に食べる物を与えるように言います。何と配慮に満ちた心遣いでしょう。

◎この奇跡物語に込められたメッセージは2つあります。その一つは、主イエスとはいかなる方かということです。主イエスとは死者を生き返らせる力と権威を持った方、死を克服された方、死に勝利された方、復活の命を与える命の主、救い主でると言うことです。4:35~40では「嵐と波を静める方・自然を支配するイエス」が、5:1~20では「悪霊を支配するイエス」が、5:21~43では「病と死を支配するイエス」が
告げられていると言えます。今回の「ヤイロの娘の復活」もヤイロと娘、その家族への愛と憐れみが奇跡を生み出す原動力となっています。主の奇跡の根源には愛と憐れみがある。そのことも伝えています。

◎もう一つのメッセージは、信仰とは何かということです。瀕死の娘を助けたいと主の前にひれ伏したヤイロの主に対する信頼を信仰と言っていいでしょう。しかし、それ以上に「恐れるな、ただ信ぜよ」と命じられた信心こそ信仰の核心です。それは復活の主、命の主としてのイエスを信じる信仰です。井上良雄先生が信仰者の出発点であり目標であるという「主による死人の復活への信仰」こそキリスト教の信仰です。