説教『神に遣わされて生きる』(マルコ6:1~13 )

2017年9月24日                  主日礼拝説教  

説教『神に遣わされて生きる(マルコ6:1~13 )

9月最後の主の日を迎えました。先週は、敬老の日の礼拝と祝会を持ち、ご高齢の皆さまの健康と平安、長寿を祈りました。祝会後に米寿を迎えられた寺澤敏子姉が遅れて来られましたが、残った皆で讃美歌を歌い祝いました。寺澤姉は「今が最高の時です!」と言われ、私達が元気をいただきました。感謝でした。

◎今日も聖書のみ言葉から新たな命を受けて参ります。今日の聖句はマルコ6:1~13です。ここには前半に主イエスが故郷で受け入れられなかった話が、後半には12弟子が伝道に派遣される話が記されています。今日はこの二つの話を通して「信仰とは何か」「主を信じる者はどう生きるのか」を学びたいと思います。

◎まず前半の記事、6:1~6を見ていきます。ここには主イエスが弟子達と一緒に故郷のナザレに行かれた時のことが描かれています。主は愛する故郷にも福音を宣べ伝えようと思われたのでしょう。早速、安息日に会堂で教えました。すると、その教えを聞いた人々は「この人はこのようなことをどこで得たのだろう」とその知恵と癒しの業に驚きました。しかし、他方「こいつは大工ではないか、マリアの息子ではないか」といって主の教えを受け入れませんでした。人々はつまずいたのでした。主は「預言者は、故郷の親族や家族に受け入れられない」と嘆かれました。そのような故郷では、主は奇跡を行うことができなかったと言います。信仰があって始めて奇跡は起こります。信仰がなかったので奇跡は起きませんでした。

◎この記事は何を伝えているのでしょうか。それは信仰とは何かということです。例えば、前々回の記事の12年間、出血の止まらなかった女性は、この方の衣に触れれば癒されると信じて主の衣に触れ、癒されました。前回のヤイロの娘の復活の記事では、ヤイロが瀕死の病の娘を救ってくださいと必死に主に願い、主は心動かされてその家に向かわれ、その途中、娘が死んだことが告げられると主は、ヤイロに向かって「恐れるな、ただ信ぜよ」と命じ、死んだ娘を生き返らせました。ヤイロの信仰は、病を癒す主への信仰から復活の主への信仰へと高められたことが分かります。それに対して、故郷の人達は、イエス様を我が救い主、神に遣わされた神の子、罪と死の勝利者・救い主として受け入れられなかった。それは主イエスを人間イエスとしてしか理解できず、感情や思い、理性といった人間的な枠を超えることができなかったからです。信仰とは人間的な枠を超えてイエスを神の子・救い主として信じることだと教えています。◎続いて後半の記事、6:6~12を見ていきます。これは12人の弟子を宣教へと派遣した記事です。ここに主の伝道活動が新たな段階に入ったことが分かります。弟子達も、主に従う段階から主の代理人として主を宣べ伝える段階に入りました。主は弟子達を派遣して主の御業を行う者にされます。主の御業とは「悔い改めさせるための宣教」と「多くの悪霊を追い出し、病人を癒す」という奉仕です。つまり、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」という宣教と、病人を癒すという援助・奉仕を指しています。また、12人とは、イスラエルの12部族に対する「新しいイスラエル・神の民」としての教会を意味しています。教会とは福音を宣べ伝える宣教と困窮の中にいる人を援助する奉仕を行う主に従う者の群だと言えます。鶴川北教会も宣教・伝道と奉仕を目指して歩んできました。主に派遣された神の民、これが教会です。

◎では、どのようにして主は弟子達を派遣したのでしょうか。そこには3つの特徴があることが分かります。第一は「二人ずつ組みにして派遣したこと」です。これは伝道が1人でするものというよりも、2人3人と複数の者が祈り合い、助け合い、協力して行いものであることを教えています。また、伝道・宣教とはイエスは救い主であることの証言であることを教えています。なぜなら、旧約以来、証人は二人以上必要 だからです。十字架に架かったイエスこそ救い主・復活の主であることを証言することが宣教なのです。

◎第二の特徴は、何も持たずに遣わしたということです。主は派遣する時、杖一本・履物・替えの下着一枚以外は何も持たずに行かせました。パンも食糧袋もお金も持たせず派遣しました。それは、すべてを神に委ねることを教えるためです。神様は、私達に必要なものはすべてご存じであり、すべて備えてくださる。主はすべてを神様に委ねる信仰を教えるためにそうされたのです。そして、すべてを神様は備えておられるという体験をすることで神への信頼と信仰、感謝の念は深まっていきます。この夏、教会を訪ねてくれた二人の外国人信仰者はそのことを教えてくれました。そのような信仰の体験をさせようとされたのです。

◎第三の特徴は、同じ家に留まれと命じたことです。一つの家に留まるためには、弟子達に謙虚さ・誠実さ・感謝・真実が求められます。主は弟子達を人間として鍛錬させるためにそうされたのです。しかし、受け入れない時は足の裏の埃を払えと命じました。福音を受け入れるか受け入れないかは真剣な問題なのです。私達はこの世に主から遣わされた者です。それぞれが主の証人として主を宣べ伝えていきたいと思います。