説教『死は命の終りではない』(ヨハネ11:25~26)

2017年10月29日            永眠者記念礼拝・説教要約
説教『死は命の終りではない』(ヨハネ11:25~26)

◎10月最後の主日を迎えました。台風の接近で雨の朝となりました。10月は雨が多く、今年は雨の中で秋が深まっていきました。そういう中、今日は永眠者記念日を迎えました。カトリック教会では11月1日を、プロテスタント教会では11月第1主日を聖徒の日として召天者を覚えて礼拝を捧げていますが、鶴川北教会では10月最後の主日をその日としています。この1年間、教会から6月に塚口美代子姉、9月に佐野兼子姉と遠藤卓兄、10月に乾文男兄を天に送りました。本教会から72名の兄姉を天に送っています。今日は、召天者を覚えて礼拝を捧げ、御言葉を通して永遠の命・復活の命について考えて参りたいと思います。

◎永遠の命・復活の命について考える前に、最初に死について考えたいと思います。先月、今年の7月に天に召された医師の日野原重明先生のインタヴューが『生きて行くあなたへ』(幻冬舎)という本となって出版されました。亡くなる半年程前の言葉ですが、そこには「(死ぬのは)恐ろしいです」という率直な言葉が語られています。他方、「でも、それは自然な感情です」と語られ「イエス・キリストでさえ十字架の前にして何とか助からないかとゲッセマネの園で祈られた。僕はそのことを思うと自分の恐怖が幾分か慰められます」と語り、続けて「人間は生まれた時から死ぬことが決まっている。人間にとって生と死は切り離せない一続きのもので、同じもの。死から目を背けるのではなく、ただただ今生きている自分の命を輝かせて生きること、これが死と一つとなった生を生きるということです。どうか、僕に残された、このかけがえのない時間を無駄にせず、与えられた使命をまっとうできますようにと毎日祈っています」と語っておられます。実に率直に、又最期まで前向きに謙虚に語っておられる先生の言葉に心打たれます。

◎それでは、聖書では死についてどう語っているのか。それは二つの側面があると言えます。一つは「死は恐ろしいものである」という側面です。なぜ、死は恐いのか。それは神の裁きがあるからです。神は一人一人に命を与え、使命を与えておられる。しかし、人間はその責任を負えない。だから、死を前にして神の裁きを恐れる。だから死を恐れてしまうのです。しかし、他方、聖書の神様は愛と憐れみの神でもある。神に負わされた使命・責任を負えずに苦しむ私達を神は憐れみ、その独り子イエス・キリストを世に送り、十字架に架け、私達の罪を負わせ、私達の罪を赦してくださり、私達を受け入れてくださった。しかも、イエス様は天において私達の場所を用意して待っていてくださっている。そう考えると、死は恐くない。神は死において私達を待っておられる。死ぬことによって神に出会える。そういう側面も持っています。

 

◎特に新約聖書は、死を超えた命、永遠の命・復活の命があることを約束しています。今日の後半においては、この二つの命についてお話したいと思います。では、まず、永遠の命とはどのようなものか。永遠の命という言葉は新約聖書に42回出てきますが、私達がすぐに思い出すのは、マタイ19:16以下の「富める青年の話」です。「永遠の命を得るにはどうしたらいいですか」と尋ねる青年に、主は、十戒の戒めを語り、それらは皆、守ってきましたと彼が答えると、全財産を貧しい人に施すように言います。すると、青年は悲しみながら帰って行ったという話です。永遠の命とは何か。それは「最後の審判において授かる命」とも「死を超えた究極の救い」とも言えます。死を超えて与えられる神からの救いと命と言えます。ヨハネ福音書17:3には「永遠の命とは神とイエス・キリストを知ること」と書かれています。「知る」とは人格的な交わり・結びつきを持つことを言います。永遠なる神とイエス・キリストと深い交わり・結びつきを持つことによって永遠の命にあずかります。山浦玄嗣さんは「永遠の命とは、いつまでも活き活きと明るく元気に喜びに溢れてぴちぴちと輝いて生きること」と書いています。そのような輝く命が主に結ばれることによって地上においても天上においても与えられる。その永遠の命にあずかることができずので、私達は天において愛する者達と再会することができるのです。これが永遠の命と言っていいでしょう。

 

◎では、もう一つの命、「復活の命」とは何か。コリントⅠの15章にはそのことが書かれています。15:51には「最後の審判において死者が復活する」と書かれています。それは、主イエスが復活したことにより、主が罪と死に勝利されたからです。アダムによって死が人類に入って来たのに対し、主イエスによって復活の命が人類に与えられた。主は復活の初穂となられ、私達も復活の命が与えられたというのです。復活の命とは最後の審判に耐えうる命、死んだ身体が完全な身体・栄光の身体に変えられることを言います。信じがたいことですが、この復活の命への信仰と希望が初代教会の人々に大きな力を与えてきました。

◎このように私達には永遠の命と復活の命が約束されている。死は命の終りではない。これが聖書の信仰です。一粒の麦は死ねば多くの実を結ぶ。死によって新しいものが始まる。新しい命が確かにあるのです。