説教『喜びの声をあげ』(ヘブライ11:13~16 )

2017年10月15日     主日礼拝(高槻教会・田中雅弘先生)説教
説教『喜びの声をあげ』(ヘブライ11:13~16 )

 

◎田中雅弘と申します。今日は神様の縁あって鶴川北教会の礼拝に招かれてお話しできることを神の恵みと受け止め感謝しています。この町田と言うのは、いささか懐かしい所でもあります。今から40年近く前、兄が狛江に、弟が調布に住み、私自身も1年間、日野市に住んだことがありますので、懐かしい所です。私は群馬県に生まれ、関西で牧師になるために学び、卒業後は下関にある梅光女学院に教師として務める一方、安岡伝道所に牧師として務めました。詩編121編に「あなたが出で立つのも帰るのも主が見守ってくださるように。今も。そして、永久に」とありますが、出てきたところに帰っていく、そんな思いです。

◎今日は、ヘブライ人の手紙を取り上げます。私どもの教会では日毎の糧に基づいて礼拝説教をしているのですが、今日の箇所も日毎の糧からの言葉です。ヘブライ書というのは面白い書物で、著者が不明であり、手紙というよりも神学論文です。前半部分にはキリストの3職、祭司・預言者・王としてのキリスト論が書かれ、後半には信仰論が書かれています。今日の箇所、11章の冒頭は有名な聖句です。11章はこの章句から始まり、旧約の有名人が名を連ねています。その一人一人は生きた時代も状況も異なり、その人格も生涯も異なります。私達もそうです。他の人と比べることのできない個性をそれぞれが持っています。

◎しかし、それら旧約聖書に登場する有名人に共通するものが一つある。それは「信仰によって」という言葉です。「彼らは信仰によって生き、死んだ」と書かれています。しかし、この「信仰」と訳された「ピスティス」という言葉は「人間の信仰」なのでしょうか。自分が捜して自分が納得して自分が決断して信じることを言うのでしょうか。この「ピスティス」は「信仰」というより「真・真実」と訳した方が良いという主張があります。もちろん、それは「神の真・真実」です。人間は不実です。この神の真実が不実な人間に神との間に絆を持たせてくださり豊かな恵みを与えてくださる。これが聖書の伝えるところです。

◎ヘブライ書は、そのように「信仰によって」と概括した上で、11:13において「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。しかし、約束されたものを手に入れなかった」と書きます。この「約束されたものを手に入れなかった」という言葉に皆さんはがっかりされるでしょうか。しかし、信仰をもって歩んで来た生涯を振り返ると、信仰をもたなかったらいただけなかった恵みがあるのではないでしょうか。クリスチャンになったから与えられた恵みがあるのではないでしょうか。結婚もそうです。牧師になると共通する体験は貧困です。しかし、信仰を与えられたことによって豊かな恵みを受けます。人間と人間の間の絆、それが神様が与えてくださる最も大きな恵みと言えます。日本の各地に教会があります。この教会を通して様々な人間の絆が生まれます。教会がなかったら与えられなかった人間の絆があります。その絆は、海外にも広がっています。今から6年前の東日本大震災が起こった時、カナダの友人からメールが入っていました。そこには「あなたがたの悲しみを私達の悲しみとして祈ります。あなたがたは決して一人ではありません。これを伝えて下さい」とありました。カナダ合同教会の信仰告白も「わたしたちは一人ではありません」という言葉から始まり、結ばれています。友人のメールもこの信仰告白の言葉から出ているいるだろうと思います。私達は神様の愛と憐れみによって結ばれています。それは神の恵みと言えます。

◎しかし、ヘブライ書は「約束したものは与えられなかった」と書いています。これはどういう意味でしょうか。11:4以下には「故郷」という言葉が散見されます。これは「天の故郷」とありますように「神の国」「神の支配」を意味します。これは「永遠の命」と言い換えてもいいかと思います。これは象徴表現と言っていいでしょう。神学者のマクグラスは「現代人は古代人が象徴としていった言葉を直接理解しようとするほど鈍感である」と書いていますが、現代人は目に見えない世界、イメージの世界のリアリティー、現実性を受け止める力を失っているのかも知れません。「永遠の生命」とは何を意味するのか。アメリカのとある救命士がこう言ったそうです。「人間はこの世を去ろうとする時、3つの願いを持つ。自分を赦してほしい。自分のことを忘れないでほしい・覚えていてほしい。自分の生涯に意味があってほしい」と。この3つの願いが満たされていると言うのが「永遠の生命」の意味です。「約束されたものを手に入れませんでした。しかし、はるかにそれを見て喜びの声をあげた」とあります。「喜びの声をあげる」とは、自分の貧しく小さくつたない人生をかけがえのないものとして暖かく受け止めて愛するということです。

◎「永遠の命」とは無縁のような私達のつたない人生を掛け替えのないものとして受け止めることは難しい
ことです。しかし、イエス様の言葉こそ永遠の命のありかを教えています。イエス様の指し示すところは
十字架です。ここに永遠の命があるのです。イエス様こそが私たちの人生を良しとしてくださるのです。