説教『逆風の嵐の中、主イエスは共にいます』(マルコ6:45~56) 

2017年11月5日            宗教改革記念礼拝・説教要約
説教『逆風の嵐の中、主イエスは共にいます』(マルコ6:45~56)

◎11月最初の主の日を迎えました。先週は2つの大切な礼拝・集会がありました。永眠者記念礼拝・墓前礼拝においては、死は終わりではないこと、私たちには永遠の命と復活の命が約束されていることを心に刻みました。特別伝道集会では、東海林悦子さんのハープ演奏とトークに耳を傾け、「音に命を吹き込む~祈りと希望を乗せて~」というテーマにふさわしく、命と祈り、希望をいただくことができました。

◎今日は、宗教改革を記念して礼拝を捧げます。1517年10月31日にマルティン・ルターが95か条の提題を公にして宗教改革が始まって今年で500年を迎えます。今日は、マルコ6:45~56を取り上げますが、ここに込められているメッセージに耳を傾けると共に宗教改革のことも心に覚えて参りたいと思います。

◎今日の箇所は、前回の「男5000人に食べ物を与える」に続く奇跡物語です。まず6:45には「イエスは弟子達を強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせた」とあります。なぜ、主は弟子達を強いて行かせたのでしょうか。ヨハネ6章にあるように「男5000人の給食」の奇跡の後、群衆が主を地上の王・救い主に担ぎ上げようとした動きから弟子達を遠ざけるためとも考えられますが、他方、この後の出来事から考えると、むしろ弟子達の信仰を深める体験をさせるために「強いて」舟に乗せ、向こう岸に行かせたと思われます。主は、その後、群衆を解散させた後、一人祈りために山に登られます。それは弟子達のために祈るためでした。弟子達が試練に耐えられるように、又信仰が深まるように祈られたと思います。
この主の祈りは私達のための祈りとも言えます。私達が試練に耐えられるよう主は祈っておられるのです。

◎その後、弟子達が逆風の中、漕ぎ悩む場面が続きます。主は、弟子達を舟に乗せた後、陸地から舟の姿を見ておられました。そのような中、逆風が吹いてきて嵐となり、弟子達は漕ぎ悩みます。「悩む」とは「拷問にかけられる」という意味を持っています。弟子達は逆風の中、拷問にかけられたように苦しみます。それが夜の明け方まで続いたと言います。その様子をじっと見ておられた主は、逆風の嵐の中、荒れ狂う波の中を歩いて舟に向かいます。ところが、主はそこを通り過ぎようとされます。それはなぜか。それは、舟の先頭に立ち舟を誘導するためではなかったかと思います。常に主は試練の中、先頭に立ち、それを乗り越せさせるのです。ところが、弟子達はその姿に驚き、「幽霊だ」と大声で叫び、怯えたといいます。
すると、主は弟子達に「安心しなさい、私だ。恐れることはない」と呼びかけます。弟子達は主を舟に招き入れます。すると嵐は静まります。弟子達はそれまでの嵐がまったく静まり、非常に驚いたといいます。弟子達は主がどのような方であるかをまだ悟っていなかったからです。悟るのに遅く、鈍い弟子達のことを記して今日の記事が終わります。これが今日の出来事の一部始終です。この後の記事は次回触れます。

◎それでは今日の記事にはどんなメッセージが込められているのでしょうか。それは、「私たちの人生には、とても前には進めないと思われる逆風の嵐が襲うことがあるけれど、イエス様はその嵐の中を歩いて私達のところに来てくださり、必ず助けてくださる」というメッセージです。以前取り上げた4章の奇跡物語「嵐の中の主イエス」という記事は、主は嵐の舟の中、ぐっすり休んでおられ、起こされて起き上がり、嵐を静めたという話でした。それは嵐の中でも主が同じ舟に共にいてくださるというメッセージを伝えていましたが、今日の記事は、イエス様が遠く離れて、もうここにはおられないと思われる時でもイエス様は必ず私達の所に来てくださり、助けてくださることを伝えています。特に「安心しなさい、私だ」という言葉は「私はここにいる」とも訳せます。主はどんな嵐の中でも来てくださり共にいてくださるのです。

ある人は、この主は復活の主イエスだと言います。復活の主は私たちと共におられる、そう言えるのです。◎同じ記事がマタイ14章にありますが、ここにはペトロの話が付加されています。湖を歩いて来られた主を見たペトロは主に向かって「あなたでしたら、私に命令して歩いてそちらに行かせてください」と頼むと、主は「来なさい」と言われ、ペトロは主に向かって歩き始めます。ところが、強い風に気がついて怖くなると沈みかけます。ペトロは主に助けられますが、主を信じ、主をのみ見つめ、主に向かって歩むことの大切さを教えています。周囲に心奪われるのではなく、ただ主を信じ主を見つめ歩むことが大切なのです。

◎1517年10月31日にマルティン・ルターが95か条の提題を公にすることにより宗教改革は始まりました。「神の義」は私達に求められる厳しいものではなく、私達にイエス・キリストを通して恵みとして与えられた贈り物と知り、ルターは神の愛を知ることで改革が始まりました。その後、非難と誹謗中傷、脅迫と圧迫、迫害の嵐の中、ルターはそれに耐え抜き、改革を進めました。ルターが逆風の嵐を耐えられたのは主が共におられ、共に歩み、共に闘っておられることを知っていたからです。主がルターを支えたのです。