2017年12月31日 主日礼拝・説教要約
説教『自分を捨てて真の命を得る道』(マルコ8:27~9:1)
◎今年最後の主日礼拝です。先週の主日は、主のご降誕を共に豊かに祝うことが出来ました。大勢の方が来てくださり、イエス様によってもたらされた大きな恵みを共にし、平和と希望の光を心に深く刻みました。
そのようなクリスマスの恵みを受けて、今日、今年最後の礼拝を捧げます。この1年を振り返りながら、自らを反省し悔い改めると共に主の赦しを受け、新たな年に向けて信仰の決意を新たにしたいと思います。
◎今日の聖句、マルコ福音書8:27~9:1は、それにふさわしいものです。この箇所は、マルコ福音書において初めてイエス様が十字架と復活のことを予告された箇所で、この後、イエス様は十字架に向かって進んで行かれます。マルコ福音書のちょうど折り返し点・中間点・中心点とも言える大変、大事な箇所です。
◎この箇所は、大きく3つの部分に分かれます。最初は8:27~30で、弟子のペトロがイエス様に対して信仰を告白するところです。次は8:31~33で、イエス様が十字架と復活を予告される所です。最後は8:34~9:1で、弟子と群衆に向かって主イエスが自分に従ってくるように招かれる所です。今日は、それぞれの箇所に何が書かれているのかを見て行きながら、そこに隠されているメッセージを探って参りましょう。
◎最初は8:27~30です。8:27によると、主はガリラヤ湖の北約50キロの所にあるフィリポ・カイサリア地方の方々で村に伝道に行かれた、その途中で「人々は私のことを何者だと言っているか」と弟子達に尋ねたと言います。弟子達は「洗礼者ヨハネだという者もいれば、エリヤだ、預言者の一人だという者もいます」と答えます。世の人々は主を高く評価していました。すると主は「それでは、あなたがたは、私を何者だというのか」と尋ねます。するとペトロが「あなたはメシアです」と答えます。メシアとは「油注がれた者」、すなわち「救い主」を意味します。ペトロは、弟子達を代表してイエス様に対して「あなたは救い主です」と自分の信仰を告白したのでした。マタイ16章では、主はペトロを高く評価しています。
◎しかし、どうでしょうか。この後の記事を読むとペトロはイエス様のことを理解していないことが分かります。半分正解で半分不正解。この後、イエス様は御自分がどのようなメシア・救い主かを話されます。
ただ、この時、主は弟子達に向かって、このことを誰にも話さないように戒められたと言います。それは、まだそのことを明らかにする時ではなかったからです。何事にも時があります。主がどのような救い主なのかは、まだ隠されたことだったのです。ここで問われるのは、私たちはイエス様をどのように受け止めているのか、果たして救い主として信じているのかということです。主は私達に信仰を問うているのです。◎では、主はどのような救い主なのか。それに答えているのが、次の8:31~33です。ここで主は「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老・祭司長・律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と教え始められたと言います。主は自分のことを「メシア」とは言わず、「人の子」と呼びます。「人の子」とは、旧約では「神に造られた人間」を意味し、後にダニエル書では「救い主」の意味で用いられています。その人の子である自分は多くの苦しみを受け、指導者たちに殺され、三日目に復活すると予告されます。十字架と復活の予告です。これは、力ある地上の王としての救い主ではなく、イザヤ53章に預言されている「苦難の僕」、世の人々の罪を担い苦しむ救い主であることを意味します。
しかも「必ず」とあるように、これは自分の計画ではなく、神様のご計画・使命であることを語られます。このことは神から主にはっきりと知らされたことでしたので、主もはっきりと弟子達に語られたのでした。
◎しかし、このことは弟子達には受け入れ難いことでした。だからペトロは主をいさめます。それに対して主は弟子達を振り返り、ペトロに向かって「サタンよ、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱りつけます。主は神の御心に従うことのみを考えておられたのです。ここには、主の強い決意がうかがわれます。主は並々ならぬ決意によって十字架と復活の道へと向かわれたのでした。
◎このように主は十字架の道を語った後、弟子達と群衆に向かって「私に従って来なさい」と招かれます。最初に主は「私に従いたい者は」と呼びかけます。ここには、主に従うことが一人一人の自由な決断によることが示されています。その上で、まず「自分を捨てて」と自分を捨てることを呼びかけます。自分の思いや願望を捨てて神の御心を第一とすることが求められます。そして、「自分の十字架を背負って私の後に従いなさい」と呼びかけます。「自分の十字架」とは一人一人に与えられている苦しみ・苦難・試練・使命であり、家族や周囲の人々の苦しみ・苦難をも含まれます。それは背負うことは実に苦しいことです。
しかし、先立ちたもう主が私たちの十字架と共に担い、私達自身を担っておられます。主はそこにこそ真の命があると言います。福音のため、主のため、神のため、世のため命を捨てる所に真の命があるのです。