説教『新しい生命の輝き』(マルコ9:2~13)   

2018年 1月14日               主日礼拝・説教要約
説教『新しい生命の輝き』(マルコ9:2~13)

 

◎1月の第二主日、新年2回目の主日礼拝です。学校では3学期が始まりました。最後の学期、仕上げの時です。教会も1~3月は年度の総仕上げの時でもあり、来年度の備えの時でもあります。この大切な時期、教会においては心を一つにして過ごして参りたいと思います。担当している礼拝説教のもマルコ福音書も第9章に入り、後半に入って行きます。いよいよ後半の佳境・十字架への道を一緒にたどって参ります。

◎今日取り上げる記事・マルコ福音書9:2~13は、イエス様が高い山に登られて輝く姿に変貌されたという「山上の変貌」の場面です。この記事は古来、何をメッセージとして伝えているのか議論された箇所ですが、この記事は一体、何を伝えているのでしょうか。結論から申しますとイエス様は人として世に誕生されたけれど、9:7に「雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子、これに聞け』」とあるように神の子であることを伝えていると言えます。これはマルコ福音書の初め1:11の主イエスが受洗された後、天から聞こえてきた声「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という言葉、さらに15:9の主イエスが十字架上の息を引き取られた時のローマの百人隊長の言葉「この人は真に神の子であった」と呼応しており、冒頭に「神の子イエスキリストの福音の初め」とあるようにマルコ福音書は「神の子イエス」を証言する書であることを伝えています。なぜ、神様は神の子イエスを世に贈られたのか。それは罪に苦しむすべての人を救うためです。そのように神の子イエスの姿が現れたのが「山上の変貌」の記事なのです。

◎ところで、主イエスが神の子であることが明らかにされたのは主が復活された時でした。ヨハネ福音書20章には復活の主に向かって弟子のトマスが「わが主、わが神」と呼びかけた記事があります。この「山上の変貌」の出来事は、主が十字架に架かる前に御自分が神の子であることを垣間見せてくれた出来事だと言えます。それはまだ隠しておくべき秘儀でした。だから主は3人の弟子達だけを連れて行かれたのですし、3人に向かって「このことは復活するまで誰に話してはならない」と堅く口止めをされたのでした。

◎しかし、なぜ、この時に主が神の子であることが明らかにされたのでしょうか。それはこの出来事の前に起きた出来事と深く結びついているからです。それは、弟子のペトロが「あなたはメシア(救い主)です」と主に向かって信仰を告白し、主ご自身がご自分の十字架と復活を予告し、弟子達と群衆に「私に従って来なさい」と服従を招かれたことです。信仰告白・受難の予告・服従の招きに応えてこの出来事が起きた。
主が十字架へと向かう前に、主が受難を受けた後、復活することが出来事を通して明らかにされたのです。
しかも「6日後」とあるように、主がご自分の明らかにされ、その意味を弟子達に繰り返して押し続けてから6日後のことでした。それは主に従う弟子達にとって大きな希望を与えるための出来事だったのです。
つまり、「山上の変貌」の出来事は、主は十字架の後、必ず復活し、勝利するという希望、また、やがて終りの時、主が再び来られ、世の救いを完成するという確かな希望を与える出来事として起きたのです。

◎その出来事が起きたのは「高い山」においてです。ヘルモン山(2814m)か、タボル山(560m)か、見解は分かれますが、山は神に出会う場所です。しかも、そこでモーセとエリヤと語り合っていたと言います。エリヤは預言者を、モーセは律法を代表し、律法と預言は旧約聖書を表します。つまり「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(ヨハネ1:17)とあるように、ここで律法と預言がめざす救いがイエス様において実現することを表しています。その救いは「エルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカ9:31)ように、十字架と復活の出来事によって実現します。十字架と復活による救いの実現は、旧約の実現であることをこのことは教えているのです。

 

◎そのようにイエス様が輝く栄光の姿を現わした時、ペトロは興奮し、舞い上がります。どう言えばいいか分からなかったと言います。他の弟子達はただ恐れていました。3人に共通するのはイエス様への無理解です。3人は十字架という苦難を通って復活があることを忘れていました。それで、イエス様はもう一度、受難・苦難としての十字架への道を教えます。マラキ書3章にあるようにメシアが到来する前にエリヤが来るとユダヤ人には信じられていましたが、イエス様はエリヤが洗礼者ヨハネとして既に来たことを教え、ヨハネが殺されたことを示しながら、そうであればその後に来るメシアが苦しむのは当然だと教えます。それはイザヤ書53章にあるように「人の子は苦しみを重ね、辱めを受ける」とあるからです。イエス様は、弟子達に自分が十字架という苦しみを経ることによって復活という勝利があることを再度、教えるのです。

◎「山上の変貌」の出来事は、復活の主、再臨の主を事前に弟子達に示すことによって希望を与える出来事でした。この希望によって私達は苦難に耐え、やがて到来する主の救いを確信することが出来るのです。