「故郷の言葉で」使徒言行録2章1~11節

「あなたにとって一番懐かしさを感じるものは何ですか」。皆さんなら何と答えるだろうか。ある通販会社が「懐かしさを感じるもの」について、アンケートを取ったという。それによれば「このところ一度解散したバンドが再結成したり、一昔前に大ブームを巻き起こした玩具が戻ってきたりと、大人には懐かしい、若者には新しい、そんな復権・復活の波が押し寄せてきています。そこで今回は、復権や復活ブームの裏側にある『心の奥で感じる懐かしさ』について、当研究所のスタイルモニター1523 人に聞きました」(ベルメゾン)という。この質問に対して最も多かった答えが、「音・音楽」で 42.5%、次いで「場所・土地」が 30.1%、「モノ」が 15.3%という結果となったという。

「昔の曲がラジオとかでふいに流れてくると、その曲を聴いていた風景が蘇ります。(23 歳 会社員)」、「やっぱり音楽がいちばん郷愁を感じます。懐かしい曲が流れると当時の記憶が湧き上がってきて、感情までが蘇る気がします。(43 歳 専業主婦)」など、「全世代にわたって音や音楽とその時代の記憶や思い出は深く結びついていることが改めてわかりました」とコメントが記されている。これは興味深い内容を含んでいると言えるだろう。

「音、音楽」これは「聴く、あるいは聞くこと」、耳に関する記憶である。また「場所、土地」とは、風景や情景のことで「見る」ことに深く関わっている、即ち目からの記憶と言えるだろう。さらに「モノ」とは「玩具や工芸品など何かの物品」であるから、「手触り、肌触り」といった「感触」に関わっているということである。確かかどうか知るために、人は実際に触れてみることをする。それ以上に人は、見た目90%で、視覚情報が判断の主な基準とされていると言われる。しかしそれよりなお、「聴くこと、聞く」ことが後々まで強く印象に残り、強く心に刻まれるということらしいのである。

今日はペンテコステ、聖霊降臨日である。この日に世に最初の教会が誕生した、その記念の日である。その時の様子を聖書はどう伝えているか、あらためて読んでみたい。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。

「風、大きな音、炎」という象徴、表象、イメージが語られる。聖霊によって教会は誕生した、それはその通りなのであるが、さて、目に見えない聖霊の働きをどう表現するのか、著者は非常に苦心しているようだ。しかしひとつ誰の目にも確かなのは、聖霊が弟子たちに何をもたらしたのか、出来事の結尾の章句に尽きているだろう。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。直訳すれば「彼らは聖霊が充満して、他の言葉で語り始めた、その霊が彼らに語ること(力)を与えたから」。聖霊は、何よりも弟子たちに言葉を満たし、あふれさせ、「他の言葉」を語るようにさせた、というのである。ここで「他の言葉」、「異なる言葉」とは何であろう。いわゆる神秘的な訳の分からぬ、うわ言のような、常人には理解できない異様なことばではない、なぜなら後でそこにたまたま居合わせた人々が、それを聞くとはなしに聞いて、ちゃんとその言葉を、何を言っているのかを聞き取れる「言葉」として了解できたからである。だからこの「他の言葉」とは、それまで弟子たちが語って来た言葉とは違う言葉が語られた、ということであろう。確かに、「前言を翻す」という態度を人間は取ることがある。以前は賛成と言っていたのが、強固に反対をする、ということがある。風向き(取り巻く状況)が変わるとそれに合わせて心も変わる(保身である)、それで自分の意見を変えるというのはあるだろう。しかし、ここで意識されているのは、あの最期の晩餐の部屋に閉じこもって、ユダヤ人を恐れ、部屋の途に堅く鍵をかけていた、その弟子たちが、今は、未知の人々の目に姿を現し、大声を上げて語り始めている、何を語っているのか、「どうせ、わたしなんか、なにをやっても、だれも、なにも、変わらない」、というかつての言葉が、「もしかしたら、わたしでも、これなら、だれかが、なにかか、かもしれない」という言葉に変わったということか、抱えている状況や事態が変わらないまでも、そこには、心の大きな変化があるだろう。「他の言葉」といっても、ささいな、ほんのささやかな「他の」、今まではそんな気持ちではなかった、ということだろうか。ともあれ、教会の誕生の、その始まりの出来事がそう言う事態であった。「彼らは違う言葉を語り始めた」

するとそれを聞いて、その界隈にいた人々、さまざまな地方からの出身者が、この言葉を聞いた、どう聞いたのか。6節「この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」。いろいろな地方から出身の人々、さまざまな異なる言葉で暮らしている人々が、「自分の故郷の言葉」を聞いたという。「自分の故郷の言葉」とは何か、ここで用いられている用語は「ダイアレクト」普通「方言」と訳される言葉である。つまり、お国言葉、家族団らんの時の、幼馴染や仲のいい友達と遊ぶ時のおしゃべり(タメ口)の時にしゃべっていた、あのなつかしい言葉を聞いた、というのである。皆さんは、こういう経験はあるか。時もところも全く違う場所で、更に思いがけなくも「故郷の言葉」「なつかしい言葉」に再び出会うという経験を。「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」石川啄木。

この中に、いつも当たり前のように使っている自分の「言葉」が、まったく通じない場所で暮らすという経験をされた人もいるだろう。世界には20キロ離れた隣村に行ったら、もう普段使っている言葉が通じない、という国、地域もある。だから学校で教わった言語、英語を使ってコミュニケーションを取り合うのだという。私たちはバイリンガルに憧れるが、いくつかの異なる言葉を同時に使わなければ、そもそも生活できない、という国や地域や場所が、世界には至る所にあり、この国のように日本語(日常で用いている言葉)だけで、何とか生活できてしまう所というのは、非常に珍しいのである。果たしてこれは、幸いなことなのか。

普段の言葉が通じない所で生活すると、耳を始め、五感が異様に鋭くなる。聴こえてくる言葉や音を、ただ聞き流すことができなくなる。情報を逸してしまったら、どこに連れて行かれるか分からないし、大げさに言えば、身の安全も保つことができなくなるかもしれない。それで眠っていても、半分、起きているような感じになる。だから疲れる。素より流ちょうに外国語が喋れるわけでもないから、頭の中を単語が行き交い、頭が休まる暇がない。少なくとも一週間くらいはそういう日々が続く。そういう中で突然に「故郷の言葉」が耳に聞こえてきたら、どういう気持ちになるだろうか。安心し、ほっとし、安らぎ、ひと時、心と身体から力が抜けて来るのではないか。

「懐かしさ」、先ほど紹介したアンケート結果の文章に続いて、こう記されている。私にとっての懐かしさとは○○○○○である。という質問では、「胸を熱くしてくれるもの(22 歳 学生)」「幸せの証(21 歳 会社員)」「これからを頑張るための活力(24 歳 会社員)」「疲れたときに食する甘いお菓子のようなもの(32 歳 会社員)」「今の幸せを改めて感じることができるもの(42 歳 会社員)」など、「懐かしさとは元気の素」、そんな姿が浮かびあがってきました。懐かしい音楽を聴くことで、懐かしい場所を訪ねることで、懐かしい友達と久しぶりで会うことで、私たちは自然に元気を取り戻し、疲れた心を癒してまた再出発する。懐かしさには、そんな魔力が潜んでいるようです。

このような「故郷の言葉」が弟子たちから語り出されて、最初の教会が誕生したというのは、非常に興味深い。まして「聖霊」の働きの実とは、「なつかしさ」なのだということにさらに注目させられる。昨年、「花の日・子どもの日」の朝に、子どもの教会の人たち、子どもと大人が福音の家を訪問した。コロナ禍でしばらく途絶えていた交流が、また再開されたことに喜びもひとしおだった。交流の中で、皆で共に歌える歌、古の唱歌『故郷』を歌った。

この歌の作曲者、岡野貞一は、明治11年、鳥取市古市に生まれる。明治26年、キリスト教系の薇陽学院に入学し、米人宣教師アダムズに楽才を認められ、音楽への道を志す。明治29年、東京音楽学校(現東京芸術大学)に入学、33年に卒業し同校の研究科生、大正12年に教授に就任、昭和7年退官。この間、文部省唱歌の編集、作曲委員として多くの唱歌を作曲する。音楽教育の発展に大きく寄与する一方、熱心なクリスチャンであり、40年間、本郷中央教会で毎日曜日には礼拝のオルガンを弾き、聖歌隊を指導するなど熱心に奉仕し、誠実な人柄であったという。

この歌を、わたしたち、そして入園者、職員の方々で歌った訳だが、交流会に参加していたあるお年寄りは、会の間中、最初からずっと下を向いて眠っている様子であった。ところが「故郷」の前奏が始まると、突然、顔を上げて目を開いて歌い始められた。「歌の力」というのか、その方の心に響いたのであろう。世代の違いがあるから、それぞれに「歌」を通して湧いてくる心象風景、イメージは異なるであろうが、私たちにこの国の「原風景」を思い起させ、引き出すような働きを、この古い歌はするようである。皆さんは、この懐かしい歌から、どんな心の風景を思い浮かべるだろうか。そして主イエスのみ言葉もまた、「なつかしい、他の言葉」であるという。私たちはそれを聞いて、わたしの真の故郷にまた帰って、新しく出発するのである。最初のペンテコステ出来事で、弟子たちが外に出て行ったように。