祈祷会・聖書の学び エフェソの信徒への手紙5章1~14節

学校や会社、人間の集まって、何かをしようとする所には、必ずモットーや指針や社是が語られる。「地域に奉仕」「常に改革」「世のため人のため」等、固くストイックなものが多い。ある製造業の会社社長が「おもしろおかしく」という社是を掲げようとしたら、役員会で大反対にあったらしい。「ウチは吉本とは違う」。

ナチス・ドイツの悪名高い収容所、アウシュヴィッツでは、その門に掲げられたスローガンが夙に有名である。数年前に盗難にあって大騒ぎになった。鉄の抜き文字でこう記されている「Arbeit macht Frei」(働けば自由になれる)。それを見たユダヤ人たちは、自分たちはもうここから出ることはできないだろうことを、直観したという。ポジティブな標語が必ずしも人間に希望を与えない証左である。

教会というところではどうなのか。確かに教会堂に人々が集まり、何をするかといえば礼拝をする。他に諸々の諸活動はあるにしても、生産とか利益、収益とかと直接には結びついていない。そして集まって、後は何をするかといえば、それぞれの生活の場所へと戻っていく。つまり「集まり、散っていく、集められ、散らされていく」所なのである。そういう「集まり・散ること」自体を目的としている場所で、「目標」とか「モットー」とかはどうなるのか。「がんばって集まりましょう、一所懸命散りましょう」という掛け声に、どんな意味があるのか。主イエスによれば、神の国は、人間の努力如何、精進によらず、いつか突然、一方的にもたらされるのである。

「目標」やら「モットー」やらが好まれる場所が、もう一つある。学校である。皆さんの学んだ学校の「校訓」は、どういったものだったか、思い出せるか。小学校の時、校門の上にでかでかと掲げられていた。「今日も一日がんばろう!」。私はこの標語を見るたびに、とても疲れた思いにとらわれた。人間いつまで頑張らねばならないのか。

この聖書個所はなつかしいテキストである。「光の子として歩みなさい」。かつて務めていたミッション・スクールの「校訓」がこのみ言葉であった。大体学校の校訓は、その名の通り、訓戒めいたものが多い。「愛神愛人」「感恩奉仕」「質実剛健」「文武両道」「自主自律」等。明治期に創設されたキリスト教学校には、聖書のみ言葉をそのまま「校訓」にしたものが多い。「地の塩、世の光」。中には「聖書自体が、校訓です」、という学校もある。

在学生はこの「校訓」を結構気に入っていた。「かわいい感じがする」というのである。そして新入生が入学する度に、この聖句の意味を話して聞かせるのが、慣例であった。

まず「光の子」とは何か。「明るい人」というイメージである。何があってもめげない、くよくよしない、前向きでいつも笑顔で、周りの人の心を明るくする、という感じである。昔の学校紹介には、「世の暗闇に小さな光を点す人」とか説明されている。ただ問題はこの「光」は、神の光であって、自分から発光して輝く光ではない。ちょうど月のように、あるいは地球のように、自分から光を出して輝くのではなく、太陽の光を受けて、それを反射して輝く、ということである。月自体は、表面にはクレーターが無数にあり、あばただらけであるのに、太陽の光を受けると、美しく輝き、醜いクレーターも「ウサギの餅つき」」という風流な風情に変わる。地球も、地上の上では諸々の国々が覇を競って、誰がNo1かと、どこがfirstだと喚いているが、太陽の光はそれらの愚かしい人間の言論などお構いなしに、真青な星として真っ暗闇の宇宙のオアシスのように映し出す。宇宙飛行士はそれを見て、神を感じたりするらしい。

聖書にとって「光と闇」は、「善と悪」というような、互いに相争うような力を競うような、対立概念ではない。「光あれ」によって、闇の中に光が生じたとは、ひとつに時間の生成が意味され、光と闇の相互補完性が意識されている。光があるから闇ができる。闇だからこそ、光の在りかや光のありがたさが知れる。闇とは、形なく空しい状態、つまり「混沌」、であるかもしれないが、本来、悪ではない。形なきぐちゃぐちゃの世界に意味を与え、方向と時節を定めるのが、光の働きである。だから神の光である「ことば」が失われるときに、世界は混沌に逆戻りするのである。

「光の子」という言葉もまた、善、悪、あるいは天使や悪魔という方向で考えることはできない。私たちは人間であり、人の子である。自ら光を発して、世を照らすことはできないだろう。しかし神の光を受けて、その光を反射させることはできるのではないか。鮮やかな光ではないかもしれない。せめてぼんやりと灰色の光くらいには、なれるのではないか。

このみ言葉にはもう一つのポイントがある。「歩きなさい」。「走る」のではなく「歩く」、この二つは決定的に異なる所がある。それは地に足が着いているかどうかである。競歩競技の一番の事柄はそこにある。走るとは、一時的に、二本の足が地面から離れるのである。いつもどちらかの足の裏が、地にくっついている状態を「歩く」という。人間は地に足をつけて生きている。空に浮かぶ天使のようになることが求められている、のではない。神の光を受けて生きるとは、空中に浮遊し、地に足のつかないようなこの世離れした生き方の勧めではない。今ある自分の生きる場所を大切にして、そこに足をつけて生きることだ。そういうあたり前の日々の中で、神は光を与え、その光を周りに反射させてくださるというのである。

私の恩師の一人が、重い病を患い、小康を得た時、闘病生活の経験を語ってくれた。「病院での生活の間、医師や看護師、周りの人たちから強い人と思われていたようだ。あなたは病気の痛みや治療のつらさにもめげずに、平静で悠々と過ごしている、大したものだ」と言われた。しかし自分は、ベッドの上でいつも祈っていた。「勇気をください、勇気をください」。信仰者の現実を語る経験であろう。おくびょうに沈み込む魂に、神の光が当たってその光を反射し、おのずと光の子としての歩みを歩まされている。病に心と体が弱くされている中でも、信仰者としての証がおのずとなされている。どんな中でも光の子としての歩みに導かれていることを教えられるのである。