こういう話を聞いた。2005年に起った出来事だそうだが、「トルコにあるゲバスという村で大変な出来事が起った。そこで飼われていた羊が、何百匹も命を失うという事件だった。ある日、一匹の羊が群れから迷って、その内に急な崖からうっかり落ちてしまった。そして、仲間の一匹が見えなくなった事に気づくと、群れの全員が崖の方へ行って、いなくなった羊のあとを追うかのように、一匹、一匹ずつ羊が崖から落ちて行ったというのである。羊飼い達が群れを守ろうとしたが、羊の行動を止められなかった。羊達は前の羊の後をついて行ったのである。いくら叫んでも、羊飼いはその行動を妨ぐ事ができなかったという。羊達はただ前の羊の後について行く事だけを考えたようで、危険を感じないで羊飼いの声に耳を傾けなかった。その日、1,500匹が崖から落ちたが、その内400匹が、気の毒にも命を落とした。不幸中の幸いに、その400匹の後に落ちた1,100匹は、生存することができた。何故なら、犠牲となった400匹の羊が、その後の羊の落下を和らげるクッションになったからである」。
何とも言いようのない事件だが、福音書に悪霊に憑かれたゲラサ人の物語が思い起こされる。湖を渡り、主イエス一行が対岸のゲラサ人の地に着くと、そこに悪霊に憑かれた人がやって来る。彼は墓場を住処としていたという。主イエスによって、悪霊は追放されるのだが、悪霊がこう懇願したという「後生だから、豚の中に入らせてくれ」。悪霊が豚に入り込むと、そこらで飼われていた豚が一斉に走り出し、もんどりうって崖から湖に飛び込んだという。先のトルコでの出来事を聞くと、家畜が集団でこのような異様な行動を取ることは、ままあることなのか、という思いになる。福音書では「豚」だが、「羊」の群れでも起こり得るのである。もしかしたら、「羊」がほんとうで、その家畜に思い入れの強いユダヤの人が、穢れた動物とされる「豚」に意趣替えをして伝承したのかも知れない。古代の文学である福音書は、実はリアルに記されていることが知れる。
羊は常に飼い主、羊飼いの世話が必要な家畜である。羊飼いから離れると命は長くはない。餌を自分の力で探せないので、食べ物や飲み物のあるところへ案内されないと、飢え死にをする。更に、羊は自分で自分の身を全く守れない。狼が襲って来ると、羊は自衛出来ず、ただ騒いで、身体を硬直させ、あおむけに倒れるのだという、すると狼はやすやすと仕留めることができる。だから、無力な羊は、羊飼いの24時間の保護が必要になる。そうでければ、自ら自分を害するか、他の動物の獲物になってしまうのである。
今日の聖書個所には、羊の飼育の様子が、生き生きと、また見事に記されている。主イエスの時代のパレスチナでは、夜になると羊飼いは、放牧する自分の羊を呼んで、囲いの中に連れて行く。その囲いはどのようであったかと言えば、崖に掘った洞窟のような穴を使うか、日本の棚田のように、丹念に集めた石を積み上げて壁を作り、塀を巡らしたような構造をしていた。文中に「羊の門」という言葉が見えるが、塀の出入り口に、立派な門が取り付けてあったわけではない。羊飼いは、羊をみな中に入れてしまうと、羊飼い自身出入り口の所に横になり、そこで眠り、夜を過ごした訳である。だから、羊飼い自身が羊の門になるのである。いわば生きている門である。夜が明けるまで、出入り口の間にずっと留まって、羊を守っていた訳である。自分の身によって、泥棒や狼の侵入や、羊が迷い出ることを防いだのである。だから、一度、囲いに入れば、羊たちは安心して夜を過ごす事ができた。そして、朝になると、飼っている羊たちを、再び囲いから連れ出し、牧草のある所、また水場に案内して、一日中、共に過ごすという次第である。13節に「心にかけて」と訳されている用語は「メレイ(ギリシア語)」という言葉で、英語の“care”に相当し、介護や養護という意味合いであるが、羊と羊飼いの関係は、またその日常生活は、正に「ケア」と呼ぶにふさわしいものであろう。
だから聖書の世界の人々にとって、自分たちと神、キリストの関係を、そのような「羊と羊飼い」との類比によって理解しようとしたことは、余りに当然であったろう。主イエス・キリストは、良い羊飼いのように、私たちの名を呼んで、ご自分の囲いに入れて下さる。私たちの魂を全ての禍害から守り、正しい道を歩ませるように導いてくださる。更に、常に主イエスについて行くことによって、生命が豊かに育まれる。即ち、真実に満ち足りた生活と人生のまことの目的と希望を豊かに与えられるのである、と。
ところがヨハネは、そういう羊飼いと羊の日常から、はみ出るようなヴィジョンを語るのである。16節「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」。「ほかの羊」、「囲いに入っていない羊」が言及される。最も素直に読めば、羊飼いのいない「野生の羊」ということになるだろうが、パレスチナに野生の羊が生息していることは考えにくい。もちろんこれは「比喩」であるから、そのまま理解する訳にはいかないだろう。羊を入れる「囲い」は、イスラエルの原風景だろう。父祖たちがひとつひとつ丹念に石を積んで、時間をかけて造られた構築物である。代々受け継いで用いられるものである。イスラエルの囲い、まことの神の造られた囲い、シェルターの外にいる羊とは、イスラエルではない異邦世界に生きる人々を指すと言う理解もできるだろう。ユダヤ戦争によって、ユダヤがまったく滅亡すると、教会はまさにギリシャ、ローマ、トルコといった異邦世界に根を下ろすのである。
「その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」。ここで興味深いのは、その「ほかの羊」が主イエスの声を聞き、その声を聞き分け、ひとつの主の群れとなるというのだが、「囲いに入れる」とは語られていないことである。明らかに「囲い」は真のイスラエルの、神の造られた羊のための囲い、「教会」のことである。つまり教会の外に置いたままにして置くということだろうか。少なくとも主イエスは、すべての人々をご自身の造られた「囲い」に、入れることだけを考えているのでは、なさそうである。この国の宣教を考える時に、示唆に富む言葉である。
「教会外のキリスト教」、この国ではキリスト教のことを知らない人々が圧倒的である。それでもキリスト教の教えには心引かれ、聖書も持っている人々は多くいます。ただそうした信仰には憧れても、具体的に教会の礼拝、その組織に入ることには躊躇する人々が多い。いわゆる宗教嫌いなのではなく、縛られるのではないかと危惧するのではないか。また、この国の私立学校の60%ほどは、キリスト教主義学校であり、幼稚園から大学までチャペルという礼拝がささげられ、授業でキリスト教の話がなされている。さらにキリスト教精神に基づく病院、諸施設もある。宗教に対するさまざまな誤解もあるが、日本における課題は、そうした人々との出会いを、どのように築き上げていくかにかかっているともいえるだろう。
2014年1月に、詩人の宮尾節子さんがツイッターに投稿した作品「明日戦争がはじまる」、当時ネットによってこの詩は拡散され、大きな話題となった。今、また読み返され、人々の口に上っている。「まいにち/満員電車に乗って/人を人とも/思わなくなった/インターネットの/掲示板のカキコミで/心を心とも/思わなくなった/虐待死や/自殺のひんぱつに/命を命と/思わなくなった/じゅんび/は/ばっちりだ/戦争を戦争と/思わなくなるために/いよいよ/明日戦争がはじまる」。
一匹の羊が、崖から飛び落ちる、すると次々に他の羊たちも後に続き、おびただしい羊たちが、次々に生命を落して行く。羊飼いたちの声も、耳に入らず、止めようとしても止まらない。かつてのトルコの出来事が、今、人間の世界で現実に起こっている。羊のために命を捨てる、まことの羊飼い、良い羊飼いの言葉が、聞こえるかどうか。主イエスは、「羊はわたしの声を聞き分ける」と言われる。安心安全の囲いに入ろうとしない、他の羊たちも導く、と主は言われる。この十字架の主の見えない働き、そのみ言葉は、必ず届くはずである。私たちも、その主からのみ言葉を語り続ける、祈り続けるのである。