「真ん中に立ち」ヨハネによる福音書20章19~29節

こんな話を聞いた。或る小学生の娘さんが、お母さんと一緒に駅までお父さんを迎えに行った。もう日が落ちて暗くなり、駅の改札から、帰宅する人々が大勢出て来ている。その中に、父の顔を見つけた娘さんが「お父さーん!』と叫ぶと、背中を向けて反対方向に歩いていた男性たちが一斉に振り返ったそうである。そして自分の子どもでないことに気づいて、皆照れくさそうな顔をしたとのことだった。それだけの話なのだが、心がなごんだ。皆、家庭に帰ればいいお父さんで、子どもを可愛がっているのだ、とほのぼのした。

誰か呼びかける人がいて、誰かそれに答える人がいる。人間のあり方のもっとも根本の形であることを考えさせるような話である。英語の”responsibility”を日本語では「責任」と訳すが、元々のラテン語は、そういうニュアンスは希薄で、語源をさかのぼると”respondeo”、原義は「返答・反応できる状態」のことである。この言葉自体はre / spondeoの2つの部分からなり“spondee”は「誓う、約束する」を意味する動詞。接頭辞のre-は「反対に、ふたたび」を表すので、“respondeo”は原義としては「~にたいするお返しとして(何かを)約束する、というような意味合いとなる。

第二次大戦中、ナチス・ドイツの強制収容所の有様を描いた、エミール・フランクルの『夜と霧』という書物がある。聖書と並んで、最も多くの世界の人々が読んでいる書物のひとつといわれる。それにこういう一節がある「その当の囚人はある日バラックに寝たままで横たわり、衣類を着替えたり手洗いに行ったり点呼場に行ったりするために動こうとはしなくなるのである。何をしても彼には役立たない。何ものも彼をおどかすことはできない。懇願しても威嚇しても殴打してもすべては無駄である。彼はまだそこに横たわり、殆んど身動きもしないのである。そしてこの危機を起したのが病気であれは、彼は病舎に運んで行かれるのを拒絶するのであり、あるいは何かして貰うのを拒絶するのである。彼は自己を放棄したのである!彼自身の糞尿にまみれて彼はそこに横たわり、もはや何ものも彼をわずらわすことはない」。私たちは、がっくりと希望を失って、食事をとれなかったことはあるだろう。しかしトイレには行ったろうと思う。本当の絶望は、トイレにすらいかず、ただ横たわるだけになる、と彼は伝えている。

フランクルが伝えるように、ちょうど弟子たちの様子はそのようであった。愛する人を失って希望を喪失し、人生を放棄しているように見える。ユダヤ人を恐れ、堅く鍵をかけて扉を閉ざし、息をひそめて一つの部屋に閉じこもっている。一説には、そこは最後の晩餐が行われた部屋であったとも言われる。弟子たちは、愛する主と最後の時を過ごした場所で、ひと時、主の在りし日の思い出に浸ったのかもしれない。ユダは別として、もう一人、この時にその部屋にいなかった弟子がいたという。その弟子の名はトマス、福音書の記すところでは、彼はマタイ(収税所の役人?)と相前後して、主に呼ばれて弟子の一人となったようだが、その素性や職業、人となりは不明である。なぜ外出していたのかについては、昔からの言い伝えがある。彼は食料係であり、皆の食べる食べ物を調達する役割を担っていたというのである。この日もたまたま食べ物の買い出しに出かけていた。丁度、間の悪いことに、時を同じくして、復活の主が、弟子たちの前に姿を現されたのである。彼が戻った時に、他の弟子たちは、復活の主がここにお出で下った、と喜びを隠し切れないで、色めき立っている。その一同の様子を見て、トマスは心底、腹立たしい思いであったろう。なぜよりによって自分がいない時に、主イエスがやって来られるのか。そもそも自分は、わがまま勝手に不在だったわけではない。皆の食べ物のことを心配し、買出しに行っていたのだ、いわば公用だ、それなのに、自分だけが除け者にされたか、意地悪をされているかのように感じられたろう。だから残念でやりきれない、満たされない思いが、激しい言葉となって、ほとばしったのである。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」機会を逸したことが悔しくて、悪態をついているのである。「君たちは幻を見ただけじゃないのか」。

この台詞から「疑いのトマスDoubting Thomas」という余りありがたくない呼び名を世間から与えられたトマスだが、彼の言葉には、「不信や懐疑」というよりも、却って「主にお会いしたい、直に顔と顔とを合わせて確認したい」との熱い思い、非常にまっすぐな心の発露、という印象が感じられる。

トマスについて興味深いのは、仲間から彼は「ディディモ」と呼ばれていたことである。そもそも「トマス」というヘブライ語の「トマス」という名前の語源自体が、ギリシャ語の「ディディモ」なのである。その意味は「双子」である。そこで古くからこの弟子の片割れはどこにいるのか、と議論がなされてきた経緯がある。「双子」なのだから、よく似た「もうひとり」とは誰のことだと思うか。

この問題について、昔から二つの答えが考えられてきた。ひとつは主イエスご自身とトマスは非常に外見がよく似ていたのではないか、と想像された。そしてさらに彼は、主の身振り手振り、語り口等、他の弟子たちに、真似つまり主の物まねをして見せていたのではないか、というのである。今の学校でも、クラスに必ず教師の物まねが上手い生徒がいるものである。「トマス、お前の物まねは最高だ!」。

もう一つの答えは何か。復活の主にお会いした他の弟子たちをうらやみ、悪態をつき、運が悪いと、自分がそのチャンスに恵まれなかったことに、不平不満を申し立てる、こういう人間とは誰のことか。虚心坦懐に考えれば、自分自身ではないか。トマスは私たちの姿を映し出す「鏡」なのだ。私たちはみな、トマスの弟、妹なのである。結局、トマスは主イエスに会えなかったことを残念がっているようでいて、実は、主にお会いした他の弟子たちのことばかり見て、気にしているのである。問題は誰が復活の主にお会いしたか、ではない。初代教会で、「自分は復活の主にお会いした」と自慢たらたらで語る人たちが少なからずいたのだろう。しかしそれは自分の力や努力で生じたことではない。

復活の主は、堅く閉ざされた家の中に、弟子たちの心の中にやって来られて、「真ん中に立ち」たもうのである、そして言われる。「シャローム」。これは聖書にあるように「平安あれ」という意味だが、それ以上に「こんにちは、こんばんは」という挨拶の言葉である。以前と変わりなく、主イエスがいつものあいさつ「こんにちは」と呼びかけて私の真ん中に、心の真ん中にやって来てくれた。そして私に声をかけてくれた。語りかけてくれた。

友達と仲たがいしても、おはようとかこんにちはとか、まず挨拶できれば、関係は回復していくではないか。弟子達の体験、心を閉ざした中に、イエスがやって来られた。トマスの所にも主はやって来られた。そして、この出来事は、今も起こるのである。今ここにいる皆は、主イエスの「こんにちは」を聞いているのである。聖書のみ言葉を知る人は、いつか必ず復活の主イエスのみ言葉を聞くことになる。今も「シャローム、こんにちは」と言いながら、あなたの所にやって来られる復活の主を、イースターの度に迎えたいものである。

小学校の入学は新しい世界への大きな入り口だった。学校に通い、勉強をする小学生になったことが誇らしく、自分はもう子どもではないとさえ思っていた。その辺りが本当に子どもだったわけで、今思うと恥ずかしい。そんな幼い自負心が、入学2日目には、早くも危機を迎えた。教室の外の廊下には、壁に上下2列のフックがついており、生徒は自分の出席番号の記されたフックに、運動靴をいれた布袋をかけておくことになっていた。だが、私の場所には、すでに誰かの靴の袋がかけられていたのである。たったそれだけで、私は泣き出してしまった。涙を拭いていると、廊下に遠慮がちに立っていた一人のお母さんが「どうなさったの」と近づいて来てくれた。その誰かのお母さんは優しく、両方の袋に書かれた名前と出席番号を読んでくれ、間違えた子の袋を正しい場所に戻してくれた。私はああ、そうすればよかったんだ、と学んだ気持ちになったが、それ以上に、子どもの背丈に体をかがめ、世話をしてくれた人の優しさが身に沁みた。その時、6歳の子どもは、この新しい世界には、切り抜けて行くべき困難や課題が沢山あるらしいこと、だが本当に困った時には、助け手が現れるということを悟ったのだ。