「永遠の生命とは」 ヨハネによる福音書17章1~19節

「今どきの若い者は」という年長者からの苦言は、紀元前、ソクラテスの時代にも口にされていたという記録がある。「ワカモノリサーチ」という会社が、今の高校生にアンケートし統計を取った。その趣旨をこううたっている。「『人生100年時代』と言われる昨今。超高齢化社会も迫っていく中、国内の15歳未満の子どもの数は1,366万人で、44年連続で過去最少を更新しています。現在の若者1人にかかる社会への重圧も増えつつあり、将来への不安を感じる若者も少なくありません(人口構成比、10%)。そんな若者たちも『人生100年』生きたいと感じているのでしょうか」。アンケートの結果、現役高校生 約35%が「100歳以上生きたい」と願っており、その内、17%の人が「不老不死」と回答している。その理由として最も多いのが、「死にたくない」、「死ぬのが怖いから」という素朴な理由で、その他、「色んな国に行きたい」、「言語を習得するのにある程度時間が欲しい」、「やりたいことがいっぱいある」と答えて、ある意味、子どもや若者らしい、健やかな理由づけが語られていることに、ほっとさせられる。

グリム童話にこのような話がある。「昔々、この世の生き物には、寿命というものがなかったので、神様はすべての生き物に、この世に生きながらえる年月を授けることにした。まずは鳥と魚、さらに地を這う生き物に、すべて30年という齢を定めた。すると、いつも人間に叩かれ、使役されている馬が『30年では多すぎる』と訴えた。仕方なく神様は馬の寿命を20年とした。今度は、いつも人間の食料の番をするために寝不足の犬が『30年では多すぎる』と訴えた。哀れと思った神様は、犬の寿命を10年とした。しかし人間は『30歳では全然足りません』と、不平を漏らした。たくさん生きて、楽しく暮らしたいと訴える人間の欲深さに呆れつつも、神様は馬から引いた10年と犬から引いた20年を足してやった。こうして人間の寿命は60歳となった。神様が年定めをしてからは、馬は苦労しても20年で、犬は疲れても10年でこの世を去ることができるようになった。しかし、人間は30歳を過ぎると馬のように重荷を負う事になり、40歳を過ぎると犬のように夜もおちおち眠れなくなった。人間は欲をかいたために、年をとってから苦労ばかりするようになった、ということである」。

「鶴は千年、亀は万年」と謂われるように、世間一般では「長寿」はめでたいものと見なされるが、現実の人生は、実際生きるとなると決して喜ばしい事柄だけで成り立ってはいない。とはいうものの「すぐに死にたくはなし」、という人生の洞察が語られた話であろうか。それでも人間は、古来より今もなお長寿を求め、永遠を追求する営みを行なっているのである。やはり「死」は自己の存在が「無」に帰することであり、虚無は「恐怖」を呼び覚ます故に、最後の「敵」とも目される所以である。古来、地上の権力者たちは往々にして、この世の覇権を手に入れるや、翻って「永遠の命」の獲得に血眼になることしばしばである。ところが残念ながらその挑戦は、ことごとく夢破れて空しく終わりを迎える。それでも「永遠の命」の追求は、現代ではさらに医療や医学の分野でたゆまぬ努力が続けられている。さらに直近では、ITの分野で、人間の一生のデータを何でもかんでも詳細に取り込むことで、故人を電子媒体上に蘇らせようという試みまでもなされている。亡くなった人の映像を前に、あれこれおしゃべりができる。人間の心の中の記憶ではなく、電脳に想い出を委ねよう、というのである。それで真に心が慰められるかどうかはともかくとして。

生きる年月に「限界」を持つ存在だからこそ、人間は「永遠」を考え、「永遠」に価値を置き、「永遠」を志向するのだろう。それが「永遠の生命」という言葉によく表されている。この世界で、最も古い文明である古代メソポタミアの文学、『ギルガメシュ叙事詩』を始めとして、古今東西の神話や伝説に、既に「永遠の生命」をめぐる物語がいくつも記されている。それらには一定の類型があって、「永遠の生命」をもう少しで獲得できようかという目前に、ささいな落ち度や失敗によって達成できないという結末を迎えるものがほとんどである。粘土板に楔形文字で記された世界最古の物語、ギルガメシュ叙事詩でも、主人公が永遠の生命を正に手に入れようかとするその矢先に、つい居眠りをしてしまい、せっかくの好機を逸するのである。やはり「永遠」の壁の前に、人間は破れ去る運命らしい。打ち勝つ日はいつか訪れるのであろうか。

今日の聖書個所は、ヨハネによる福音書中の、主イエスの「遺言」、あるいは「告別説教

と呼ばれる部分の末尾である。長々と別れの言葉が語られ、その最後に「祈り」でもって締めくくられる、ちょうど礼拝説教のような構成となっている。その祈りの中で、「永遠の生命」が語られ、実はそれがこの福音書の「鍵語」ともなっているのである。2節「子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです」。主イエスは、「ゆだねられた人々」つまり神によって選ばれ、主イエスのもとに招かれた人々、教会に繋がる人たちに、「永遠の生命」を与えることができる、というのである。

ヨハネが福音書を記した時代は、いわゆる「ローマの平和」が地中海周辺世界をあまねく支配し、帝国の絶大な権力の下に、一応の平穏な生活が保たれていた。そうなると人々の関心は、やはりこの世のことばかりでなく、形而上学的な物事の関心や探究に向かうことになる。世俗を超えて「永遠」とか「完全」とか「真理」について思考することが、当時のトレンドであったのだろう。不完全で死という限界を持った人間が、それを超えてゆく道への志向である。それは宗教哲学的な問いとして現れることになる。教会でも、内と外から「永遠」について問われたのである。そこでは観念的で神秘主義的な陶酔を求めようとする極端な傾向も生じ、教会で激しい議論も起こっていたのだろうと想像される。

そもそも信仰を持って生きるとは、どういう生き方であるのか。この世を超越し、神秘的な天上世界にたゆたうことか。今日の主イエスの祈りに、それが明確に示されている。「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」。信仰者は世捨て人ではなく、この世の只中で生きる存在であるが、仮面を被って、本音と建前を巧みに使い分けて、こと器用に生きるのではない。やはり絶えず世の誘惑に絶え間なくさらされ、引きずられるのである。だから「世から取り去ることではなく、悪い者、(悪)から守ってくださること」が必要なのである。「悪」は人を道ならぬところに引き釣り込もうとする。さらに「世に属していない」とは「永遠の生命」を受け継ぐ者という意味であるが、それは超越的な神のような存在になることでもない。ではどうなのか

主イエスは「永遠の生命」を次のように言い表す。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。「神を知る、キリストを知ること」、ここで「知る」とは、知識理解のことではなく、同じ釜の飯を食うとか、寝食を共にする、というような、親しみ睦ぶという意味合いの用語である。即ち、「ことば」である主イエス、その「み言葉」に親しみ、その言葉と共に生きようとする者こそが、永遠の生命を受け継ぐのだという。つまり「死人の中からよみがえられた」とは、「み言葉において永遠、死んでも失われず変わることがない」という意味である。

弟子たちにとって、主イエスの無残な十字架の死によっても、その後で墓に葬られ、目から見えなくなっても、主の語られたみ言葉は、決して失われることはなかったのである。主の死によって身体は墓に葬られ、見えなくなったかもしれないが、そのみ言葉は、かえって死を超えて信じる者の魂に、生き続け、働き続けたのである。これは、「信仰」の世界の事柄だけのことはないだろう。今は私たちの目からは見えなくなってしまった方々、親しい人の言葉が、不意によみがえってくることがあって、それも以前では思ってもみなかった意味合いで響いてくることがある。「あの時、あの人が言ったことはそういうことだったのか」、私たちはそういう今は見えない人のことばと共に、生きていないだろうか。

医学の発展によって「不老不死」の技術はさらに進歩して行くだろう。しかし、グリム童話が突きつける「生きる幸い」の問題は、解決する訳ではない。「永遠の生命」を得られたとしたら、人間はいったい何をして毎日を過ごすのか。相変わらず飲み食い、働き続け、享楽を追求するとしたら、今とさほど変わりない生活となるだろう。但し、それはいつ終わることのない、無限ループの営みとなるのである。そういう所に、果たして「希望」はあるのか。

主イエスの祈りは、次のみ言葉で閉じられる「これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」。やはり「喜び」が、今、ここにある、ということが、人間にとって最も大きな慰めである。「生きて行く時も、死んで行く時も、まことの慰めとなる」ものを措いて、他に「永遠」をどこに見出すことができるだろうか。