先ごろ、今年のノーベル平和賞に日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が選ばれたことが伝えられた。これに寄せて長崎の地方紙が次のように記していた。「同僚がお父さんの話をしてくれたことがある。焼き魚が苦手だったという。父ちゃん、どうして食べんと?『あの時に嗅いだいだ、人の焼ける匂いを想い出すけん』。被爆者だった。『サバイバー』、原爆の被爆者のことを英語で『生存者』と呼ぶのは、きっと原爆を投下した側が『みんな死ぬはずだ』と考えていたからだ。でも、生き抜いてくれた人がいて、小さく、しかし確かに語り継がれた記憶が今もこの街のあちこちにある。その被爆者たちは『許さない』でも『憶えておけ』でもなく、ひたすら『繰り返さないで』と訴え続けてきた。それが世界のどんな場所でも。『ノーモア』は人類の未来に向けた願いだ。だから世界の言葉になった」(10月12日付「水や星」)。
「サバイバー(生存者)」という何の変哲もない言葉も、「原爆」という見地から見たら、そこには一方的な思い込みや人間の高慢さや非情さが滲んでいる。さらに「ノーモア(繰り返さないで)」という一点に、被爆者たちの訴えの心が集中していることに、あらためて私たちの視座をどこに据えるべきかを教えられている気がする。金科玉条のように「抑止力」ばかりに力点が置かれている現状に、「繰り返さない」という「世界の言葉」を届け続ける努力を、深く感じさせられるのである。それは憎しみを越えて、愛の力に身体と手とを伸ばそうとする行為とも換言できるだろう。
さて今日の聖書個所は、コロサイの信徒への手紙2章である。この書物は新約の諸文書中では比較的後代になって、紀元1世紀末か2世紀初頭に記されたと考えられている。パウロの名が記されているが、最初の教会が誕生してから、ある程度の時が経過した時代の雰囲気がここかしこから伝わって来る。一言で言えば「初心忘るべからず」、これが繰り返し語られる。例えば6節「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい」。この勧めは、入門したての者、初心者に向けての言葉ではないだろう。「キリストを受け入れた」という言い方に、随分の時の経過を感じさせられる。皆さんは、自分がバプテスマを受けた時のことを、あるいは自らの口で信仰告白をされた時のことを、はっきりと覚えていることだろう。ある方は、「洗礼を受けたあの時に、自分は死んだのだ。今、おまけの人生を歩んでいる」と言われた。「おまけ」とは「恵み」のことであるが、実際、人間は得てして「おまけ」の方に強く心が引かれるものである。
「初心、忘るべからず」は、能楽の大成者、世阿弥の教えと言われるが、これは初心者への忠告ではなく、ある程度のベテラン、稽古に精進して、既に芸を十分身に着けた人に対する警告であるとされる。自分の芸にある程度の自信がついて、「これでやっていける」との見通しを得ると同時に、高慢にもなりがちな心を戒めるためだという。それでは「初心」とは何かといえば、「能」を習い始めてから間もない頃の心や気持のことである。出会う事柄、すべてが目新しく新鮮で、心をときめかす。それとともに習得すべき課題の多さや困難さに打ちひしがれる、「自分には到底無理だ」と絶望的な気持ちさえも沸き起こる。そんなこんなでそれでも道の修養に励んだ末に、舞台に立てるまでになったとしよう。念願の初舞台、そこで頭が真っ白になって、演技どころではなく、無我夢中にその場を何とか凌ぐという不格好な有様、それらすべてをひっくるめて、能の道を究めた導師は、「初心」と呼ぶのである。
信仰の道にも、同じような「初心」があるのではないか。絶えずそこに立ち帰りながら日々の生活を歩んでいくのである。今日の個所で主張されている事柄は、極めて明確である。用いられている用語を一瞥しただけでそれが知れるだろう。わずか15節の文章に「キリスト」という言葉が、17回にもわたって繰り返し言及されているのである。「キリストへの集中」と呼びうるほどに、しつこく繰り返されている。なぜこうまでして「キリスト」を強調するのか。もちろん、キリスト教信仰において、「キリスト抜き」などありえないことである。しかし最も大切だと思われる事柄は、かえって大事にしまっておかれ丁寧に扱われ過ぎて、ついに全く日の目を見なくなる、ということもあるのではないか。
8節「人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません」と呼びかけている。「人のとりこ」とは「誘拐される」という意味であるが、情報過多の現代、フェイク・ニュースが巷を縦横無尽に飛び交う時代にあって、「誘拐」は、私たちの日常のこととして、至る所に立ち現れている。詐欺被害の警告がなされない日はないが、相変わらずの被害者が出続けている。もっとも危ういのは、「自分は決してだまされない」という自負を持っている人だそうである。結局、自分にばかり目を向けている人は、外に自分の根拠を持たないために、容易に「誘拐」されるのである。深呼吸して(つまりひとたび祈りによって深く自分の息、思い込みを吐き出して)自分を手放す必要がありそうである。キリストは「神の秘められた計画(ミステリ)」と言われているが、ミステリの最後には、必ずと言って良いほど、どんでん返しが待っている。そして一番疑わしい人物は犯人ではなく、もっとも善人に見える人物が、真犯人であることが多い。私たちの現実もまた、よく似ているのではないか。
「初心忘るべからず」と言われる。しかし、いつまでも新鮮な初めの気持ちで生きるためには何が必要か、「あふれるばかりに感謝しなさい」、と勧められている。キリストと共に生きている歩みの中に、感謝すること、できることを、具体的に探して、こころの掲示板に書いてゆくのである。心の白版を「感謝」で一杯にすることで、心は却って真っ白に輝くだろう。
「繰り返さないで」という言葉が世界に繰り返されて、戦争での核兵器使用は、未だ3回目は起こっていない。この小さな言葉が「世界のことば」となり、それが一番の「抑止力」であるとしたなら、それこそ神のミステリの名に最もふさわしいのではないか。