「どこから生きた水を」マタイによる福音書4章1~14節

先週の水曜日は教会暦で「灰の水曜日」、今年の受難節を迎えた。日曜日を除く「40日間」を、主イエスのご受難、十字架の道行きを、いつも以上に心に想起しつつ、過ごす期間となる。聖書において「40」はなじみ深い数字である。日、年の違いはあっても、40の数字が被せられた期間を、幾つも目にすることができる。ノアの洪水は40日40夜続き、モーセは40日間、神の山、シナイ山上に留まり、出エジプトの後の約40年間、イスラエルの民は荒れ野を放浪したとされる。古代人にとって「40」とは、短期的、あるいは長期的にひとつ事が生じて、それが一定の形を成し、収束をする期間と理解されていたようである。

年単位で言えば、「40年」は、古代で、世代の交代がなされる期間、即ち「一生」のことであり、日単位の「40日」とは、「病気やケガ」からの治癒、回復、あるいは「別離」に伴う悲しみと何とか折り合いをつける期間なのである。だから「40」には、どこか苦難、試練の時という比喩が含まれている。

最初の教会は、主イエスの受難と復活を覚えるにあたって、何に目を向けたかと言えば、やはり40日間の「荒れ野の誘惑」の物語であった。主イエスのみ苦しみを自分たちのできる所で共に味わい、それにあずかろうとしたのである。かつて主が荒れ野で断食をされたように、自分たちもまたそれに倣って生活をしよう、という訳である。だから受難節の最初の聖日には、今日のテキストが朗読される、自然とそのような習慣が生まれたし、現在の私たちもまた、そこに目を向けて受難節の歩みを始めるのである。

よく知られたこの物語は、悪魔(サタン)が脇役として登場し、主イエスと緊迫のやり取りをすることで、短いが見事な文学的構成を形づくっている。誰も余人のいない寂しい荒れ野で、大群衆のひしめく境内を見下ろす神殿の屋上で、町全体(世界)が見晴らせる高い山の上で、それぞれに拡がる風景を背景に、二人の人物の対話がなされる。つまり現代の映像芸術にも通じる手法で物語が展開されていくのである。

さらにこの二人の人物の対話の内容が、これまた興味深い。「これらの石がパンになるように」、「神の子なら(衆人の目の前で)ここ(神殿の屋根)から飛び降りたらどうか」、「世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、これをみな与えよう」、このように「食べ物」から始まり、「富・権力」、「名誉・評価」、「安心・安全」についての事柄が、順々に論われている。こういう人間の普遍的な課題が並べられているのを見て、感のいい人は、かつて学校で習った有名な理論を思い起されるだろう。アメリカの心理学者のアブラハム・マズロー(Abraham Maslow)が提唱する「欲求5段階説」と呼ばれる自己実現理論である。

彼の心理学体系の骨子をなす「自己実現理論」によれば、人には5段階の欲求があるとされる。それらの欲求とは、まず「生理的欲求」、飲食や排せつ、また「安全の欲求」、安心や安定(金銭、生活)、次いで「社会的欲求」、家族、サークル、仲間づくり、さらに「承認の欲求」、名誉や評判、人からの評価を求めるのだという。そしてその上で「自己実現の欲求」、ほんとうの自分らしさを体現したいと願うようになるのだという。

悪魔の「誘惑」とは言うものの、その語るところは、実際、この心理学者の唱える理論と大差ないし、これらの世俗の価値観を求めたら、人間が堕落して、まったくだめになる、というものでもないだろう。主イエスも、悪魔の言葉に対して、「人はパンだけで生きものではない」、「主を試してはならない」、「ただ主に仕えよ」と言う具合に「また聖書にはこう書いてある」という答え方で、「ま、あなたの言う事は分かるが(それはあなたの感想ですよね)」と無下に否定や拒否、拒絶をしているというより、距離を置き、はぐらかしているというニュアンスである。大体、聖書の語る悪魔の語り口は、「正論」という形で語られることが多いのだ。実際、人間は強くこだわる人も、悠長に考える人も、皆大体において、マズローの言うような道を歩みながら、生きて死んでいくのである。この紀元前後に成立した文学が、ここまで巧みに人間の心理分析を行っていることに却って驚かされる。

問題は、そのように階段を上るように上を目指す人間の、その歩みが行きつくところは、「自己実現」、つまりありたい自分自身になることだという。一体皆さんは、どんな自分になって、どんな自分で死にたいと願うのか。どうなったら、ほんとうに生きてきて良かった、生まれて来てうれしい、となるのだろうか。

皆さんは長崎に行かれたことがあるか。長崎は「坂の町」として知られているが、中でも有名なのは、「オランダ坂」である。かつて務めていたキリスト教学校の発祥の地が、この有名な坂を上った場所にあり、毎年のように「聖地巡り」ではないが、中学一年生を引率して、「オランダ坂」詣でをしたものである。「オランダ坂」と聞いて、どんな風景を想像されるだろうか、ここを訪れた人々の率直な感想は次の通りである。「石畳は素敵なんだけど、これといった見どころがなかった」、「何がオランダなんだろうか」、「坂が結構つらかった」。あまり芳しい印象ではない、そのため「日本三大がっかり坂」のひとつに数えられているらしい。

しばしば「聞いて極楽、見て何とやら」と語られる。実際に目にするまでは、いろいろあれこれ想像をたくましくし、期待し、希望あるいは不安、その両方の思いを膨らませて歩んでいく。やがて目的地に着いた時、そこに拡がる光景を見て、どんな感慨を持つことになるのだろうか。例えば、未だ上ったことのない山に登ろうとするというような時、あの頂の先の向こう側を見たら、そこにどんな光景が広がっているのか。「まさかの坂」だったら、どうするだろうか。40年後どうなっているか、は確かには知る由もないが、たとえ40日先としても、その後の有様が今とどう変わっているか、人間には確実に分かるはずもないのである。

この「悪魔の誘惑」の物語は、興味深い枠組みを持っている。1節「“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」から書き起こされる。そしてその結末は11節「天使たちが来てイエスに仕えた」。「霊」とは聖霊、「天使」もまた「聖霊」のことだから、この物語の背後の主体は、「霊によって」(昔のサスペンス・ドラマで「例によって、君もしくは君の仲間が…、当局は一切関知しないからそのつもりで」という有名な台詞があったが)、なのである。主イエスの意志、とか計画とか、目論見を超えて、聖霊が働き、聖霊が彼を動かし、さらに聖霊が彼を導き、聖霊が彼を守る、というのである。福音書は主イエスの生涯は、「霊に導かれて」の歩みであると語っている。その誕生の初めから、母マリヤから生まれ、家畜小屋で飼い葉桶の中に寝かされ、長じては神の国の宣教に携わり、大勢の病人、悪霊に悩む人々、罪人と呼ばれた人と出会い、共に食事をし、癒し、み言葉を語られた。さらに十字架への道を歩まれ、ついに十字架に釘づけにされ、亡くなられた。この一切すべてが、聖霊に導かれて」の歩みなのである。そして問うのである、あなたの人生の歩みは、どうなのか。自分の力のおかげか、その発露か、結果なのか。

「伝説の始まりはこうだ。貨物船でフランス・マルセイユに到着した青年は日本製のスクーターで単身パリへ向かう。背中にはギター。ヘルメットには日の丸。かなり珍妙ないでたちである。その道が『世界の巨匠』につながっているとは当時の青年自身も思っていなかったかもしれぬ。指揮者の小澤征爾さんが亡くなった」(「筆洗」2月11日付)。

先日、世界のマエストロの評判が高かった氏の訃報が伝えられた、享年88歳。やはり私たちは。この人がどうして指揮者になろうと思ったのか、そこに興味が引かれる。10年程前に、氏は米メディアにその理由を語っている。子どもの頃はピアニストを目指していた。しかし、中学生の頃に転機が訪れた。「15か16歳だったと思います。当時はラグビーをやっていたんです。とても危険なスポーツなんですが、私はラグビーではとても重要な、ナンバー8というポジションでした」。続けて「ある日、とても重要な試合があって、そこで両手の指を2本骨折してしまったんです」と当時を振り返っている。ピアニストとしては致命的な指の骨折。ピアノを弾くことができなくなってしまい、途方に暮れていた小沢氏だったが、ピアノの先生に「指揮者はどうだ?」と言われたという。「だけど、当時はテレビもない時代です。だから指揮者を見たことさえなかった。実際のオーケストラさえ見たことがなかったんです。だから試しに見にいったんです」。そのオーケストラが演奏していたのがベートーベンのピアノ協奏曲第5番。しかもピアノ奏者が指揮を兼ねるスタイルだった。「これだ!と思いました」と、指揮者を目指すきっかけとなった瞬間を語っている。

「指の骨折」が人生の転機となることがある、という。今までの歩みを閉ざされたという経験が新しい世界を開く。「荒れ野」は悪魔や悪霊、あるいは野獣が跳梁跋扈する「異様な世界」である。しかし他方、そこは「神との出会いの場所、神の恵みの場所」なのである。「荒れ野」は悪魔の跳梁する場所であるが、それと共に、天使、聖霊が仕える場所、つまり神が出会ってくださる場所でもある。他ならぬ荒れ野に、主イエスは身を置かれ、苦しまれた。悪魔からの試みを受けられた、即ち、人間の最も心の底にあるものを巡って、本当に私たちが手を伸ばすことが出来るもの、縋り付くことができるものを、表してくださった。この苦しむ主イエスにこそ、私たちは繋がるのである。