祈祷会・聖書の学び ガラテヤの信徒への手紙2章1―10節

最近、コロナ禍で落ち込んだインバウンドの回復のニュースが伝えられている。海外からの旅行者が、従来の有名な観光地ばかりでなく、これまであまり目を向けられることが無かった場所、地域を訪れる傾向が出て来ているという。かつての“Discover Japan”を思い出す。そこに住む居住者ではあっても、「未踏の地?」と呼びうる場所はあるものだ。

旅行の流儀も時代とともに変化をする。以前は限られた日程で、有名どころをできるだけたくさんに欲張って見物する、という駆け足のようなスケジュールが組まれたものだが、最近は鄙びたところをゆっくり、ゆったりしたい、寛ぎたい、あるいは徒歩でひたすら歩き回って、その地の風情を味わいたいという趣向が前面に据えられる時代である。ならば、人生はしばしば旅に喩えられるが、その旅はどのように味わうべきものだろうか。

パウロの手紙を読む楽しみはいくつかあるが、現代の私たちが口にするのと同じ言葉を発見できることが上げられよう。しかも、少々内外共にくたびれてきた世代には、「パウロよ、お前もか」と言いたくなるような、本当に共感できる言葉がひょこっと見え隠れするところが妙である。(逆に反発したくなる言葉も随分あるが)。2節「自分は無駄に走っているのではないか、あるいは無駄に走ったのではないか」。パウロにとって人生の旅とは、「歩く」ものではなく「走る」ものであった。もちろん「走り抜く人生」と言うものに疑義を呈する方もあろう。やはり地面をしっかり踏みしめて、一歩一歩着実に、とか、焦らないでゆっくりとか、浮き足立つのではなく、地に足がつくようなとか、いろいろ反論もあるだろう。

作家の村上春樹氏は、執筆の合間に毎日「走っている」ことを口にている。「昨日の自分をわずかにでも乗り越えていくこと、それがより重要なのだ。長距離走において勝つべき相手がいるとすれば、それは過去の自分自身なのだ」。また「僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている」(『走ることについて語るときに僕の語ること』)。どうやらこの作家は、平板に陥りがちな日常と自分自身とを切り離すために、「走る」という行為を援用しているようである。普通、「休養」というインターバルを、逆説的に「走り」によって実現しているというわけだ。

パウロの人生観を、まるで競走のようだ、と批判することはできる。しかし、この年になってきて、つくづくこの使徒の「走る」が身につまされる。それが良いか悪いかは別にして、リアルに響くのは「歩く」でなくてやはり「走る」だ、としか言いようがない。かつてお世話になった恩師の一人は、ご自身の祈祷の中で「今日一日をしっかりと走りぬけるように」とよく祈られていた。若い時にこれに接して、この祈りの言葉を非常に感銘深く聞いた覚えがある。その人は、すでに天国の住人であり、さすがに今はゆっくりと休まれていることと思うが。

1節に「その後14年経ってから」とある。これも興味深い記述である。伝道者としてかれこれ15、6年苦労してきたパウロである。アスリート(走り屋)パウロである。途中でぶったおれることもしばしばだったらしいが。最初、無我夢中でなれない仕事をこなして、毎日精一杯、自転車操業、その日暮らしである。そしてふっと気付くと15、6年が経っている。そのあたりで人間、息切れをする。そこで思う「自分は何をやってるんだ」。皆さんはパウロの言葉を自分の言葉として読むことはできないか。「自分は今、無駄に走っているのではないか、または無駄に走ったのではないか」。「無駄ではなかったか、無駄ではないか」、意味がない、稀代の伝道者パウロもこう口にし、煩悶しているのである。神に仕える仕事をしていても、キリスト者であっても、こうした「全てすることなすこと無駄ではないか」という思いが沸き起こってくることを、私たちしっかり心に留めておく必要があろう。

何の成果も上がらなかった、失敗だった、というのではない。仕事の結果、労苦の実りは目の前にちゃんとある。パウロの場合、困難の中に新しい教会が生まれ、人々が集り、制度も整ってきている。それでも「無駄だ、無意味だ」、ということがある。自分の人生が無駄に思える、というのは、めぼしい成果が上がらないというのではなく、外見は満ち足りた中に、内側がすぽっと空になってしまっている、そういう状態だろう。パウロの状況に即して言えば、自分の語った福音は、実は福音ではなかったのではないか。これまで自分がこれぞ本物と一番大切にしてきたもの、そして人々に語り伝えてきたものが、実はまがいもの、偽ものではないのか。パウロの言う「無駄だ、無意味だ」というのはそういうことである。

但し「無駄ではないのか」という意識は、実に大切な視点ではないかと思う。現状に甘んじない、繰り返しの中に埋没しない、多忙さの中に逃避しない、そういう問いかけになるだろうと思う。この手紙で、パウロがガラテヤ教会に対して見ているのも同じ事柄である。教会のやっていることは無駄ではないのか。教会の中心に福音がない。福音がすっぽり抜け落ちている。教会という所は、礼拝、ピクニック、教会学校、読書会、伝道集会、冠婚葬祭、いずれの催しであろうと、どういう形を取ろうと、真中に「福音」「神の言葉」があるはずである。「これは福音とは関係ありません、ただの人集めですよ」なんてのはありえない。しかし、その真中に有るべき福音がすっぽり抜け落ちて、がらんどうになってしまっている。だからパウロは、もはやガラテヤ教会を、「神の教会」と呼ぶことができないのである。

「無駄だ、無意味だ」という思いに囚われるパウロが決断した道は、エルサレムへの途だった。エルサレム教会で、そこにいる人々に、また柱と目される指導者に、自らの福音を語ったのである。「わたしは異邦人に述べ伝えている福音について、人々に、おもだった人には個人的に、話した」。つまり福音は教会で語られ、初めて福音となるものなのである。パウロは「無駄ではないのか」という思いに満たされ、うめきと破れの中で自らの福音を語った。私たちもそうかもしれない。自分の破れ、躓き、困難、愚痴、こんなこと教会で語って何になる、無駄ではないか、と思われること、それが教会で語られることで、福音になっていくということはないだろうか。

パウロが自らを語ったとき、エルサレム教会で起こったことは、「強制されませんでした」「強制されなかったのです」「屈服して譲歩することようなことはなかった」「どんな義務も負わせませんでした」「私とバルナバに一致の右の手を差し出しました」であったという。つまりそれを一言で言えば、4節「キリスト・イエスによって得ている自由」が満ち溢れた、というのである。私たちは、おそらく信仰に生きたとしても、「無駄かもしれない」という思いから離れることはできないだろう。しかしその「無駄だ」という思いと、「キリストの自由、福音の自由」がいつも向かい合って、時に火花を散らしながら、その間で生かされているというのが、ほんとうの所ではないのか。キリストの十字架という、もっとも救いから遠い、呪いの死、いわば無駄死にから、新しい命がほとばしり出てくる。どこまでいっても結局、私たちの人生には「無駄」が付きまとっている。そこに福音がぶつかってくる。そして新しい命に生かされる、それが福音というものではなかろうか。