「まことのものの写し」ヘブライ人への手紙9章23~28節

最近、話題となった絵画に『サルバトール・ムンディ(世界の救世主)』と呼ばれる作品がある。クルミ板に油彩で描かれ、大きさ45.4 cm×65.6 cm程の比較的小さな絵である。ルネサンス風の青いローブを着用した人物が、右手の指を十字に切り、左手に水晶玉を持ち祝祷している。サルバトール・ムンディとはラテン語で「世界の救い主」の意で、水晶玉は一般的に「天の天球」の象徴と解釈されている。2017年にニューヨークのクリスティーズ・オークションで競売にかけられ、一般市場で流通している美術作品としては、史上最高額となる4億5000万ドル(500億円以上)で落札された。

なぜこんな法外な値段が付けられたのか。鑑定士によるとこの絵は、1490年から1519年ごろにレオナルド・ダ・ヴィンチによって制作された油彩作品、世界の救世主としてのイエス・キリストの肖像が描かれたもので「男性版モナリザ」と呼ばれることがある。ほかに「ラスト・ダ・ヴィンチ」と呼ばれることもある。

この絵には曰く因縁があり、その存在は昔から知られていたが、長らく行方不明になっていた。ところが突然1958年にオークションに出品され、その時には「複製」とされて45ポンド(約8000円)で落札された。2005年に再びアメリカの美術商に売却された時には、価格はわずか1175ドル(約13万円)だった。しかしその後、模写ではなくダ・ヴィンチの真筆である可能性が浮上し、価格が上昇。アメリカ、ロンドン、スイス、ロシア、サウジアラビア、フランスといった各国の美術商や美術館、富豪などの手を経るごとに価格は釣り上がり、最終的には500億円余という高額になったという次第。「ほんもの・にせもの?」、今なお喧々諤々の議論の中にある。アラブの王族が落札したと言われるが、その所在は、またもや不明となっている。

さて、へブライ人への手紙である。前にも申し上げたが、新約の文書の中で、最も後期に書かれただろうと推測されている。非常に洗練されたギリシャ語で記されている。ところが手紙が問題にしている事柄は、妙に詳しく旧約聖書の物語、またユダヤ教の習俗であり、ここから「ヘブライ人」という名称が付されたという塩梅である。そして本章では、ユダヤ教の神殿礼拝、祭儀とはいかなるものかが、細かく延々と紹介され論じられている。

この手紙の著者は、この章でユダヤ教というものの本質を明らかにしつつ、自分たちの信仰の決定的な差異を語ろうとするのである。初代教会の誕生した当初は、キリスト教という名称もなければ、新宗教という自覚もなく、ユダヤ教の一派(セクト)、「義の道」として、教会は自己理解をしていた。ところが紀元2世紀のこの時代になると、もはやユダヤの国は滅亡し、その総本山エルサレム神殿も見る影もなく廃墟となってしまっている時代であるから、教会の人々は、自分たちの信仰の独自性を自覚し、はっきり別の道の者と認識しているのである。ユダヤ教の1セクトではなくて、新しい信仰に自分たちは生きているのであると。

ではそもそもユダヤ教の本質とは何か。著者は「まことのものの写し」であるという。「模写」あるいは「コピー」のことである。昔、学位論文を書いたなら、複数の人に審査してもらわなければならない。原本とそれ以外に複写が数部必要だった。もちろん、自分が手書きで複写するのである。私が学生時代、ようやくゼロックスが普及し、本やらノートやら簡単に複写できるようになったが、それでも一枚刷るのに、店で100円払った記憶がある。それが今は、パソコンとプリンターで自宅にいても、いつでもすぐに、何枚でも安価で複写することができる。最近は、原稿や掲示をそのままスマホで撮影してお終い、という時代である。

但し、問題も生じている。単純、簡単にできることに対して、人間は安直に鈍感になりやすい。すばやく複写できるということは、原本、オリジナルを勝手に利用したり、改変したり、自分勝手にやりたい放題にしてしまうことが起こる。最近、大学の先生が、他の人の論文を盗用したというニュースが伝えられるが、この時代の問題を顕著に表しているといえるだろう。この時代のユダヤ教ではないが、今も「まことのものの写し」の時代なのである。

ところで「まことのものの写し」と言われると、「偽物」とか「まがい物」という意味合いとして受け取ってしまいがちであるが、「写し」という用語に特に注意したい。これは音楽や演劇などの上演の喩えとして理解したらわかりやすいかもしれない。音楽も演劇も、その元々は、「楽譜」、あるいは「台本」に記されていて、その指示に従って「再現(繰り返し)」するのである。よほどの駄作、失敗作なら一度上演されてお蔵入り、となるかもしれないが、良い作品であると好意的に評価されれば、一度ならず二度三度、何度も何度も上演され、繰り返し演奏される。

クリスマスの際に、これがなくてはやはりクリスマスらしくない、と言えるものがいくつかあるだろう。『きよしこの夜』という讃美歌など、その最右翼だろうが、この有名な、世界で最も多くの人によって歌われた、これからも歌われるだろうこの歌は、実は、オルガンが故障したという突発事態で、やむを得ずその年のクリスマス礼拝で、ギター伴奏により、大人と子どもが歌い交わす仕掛けの、その時一回限りに用いる目的で、急遽作られた讃美歌のはずであった。ところが旅の商人によってこの曲の写しが、さまざまなところに持ち運ばれ、いつしかヨーロッパ中、世界中に広まってしまった、という訳である。今もなお、クリスマスの度に繰り返し、繰り返し歌われ、奏でられる。

ユダヤ教とはまさに「繰り返し」の宗教である。神がかつて命じたように、その戒めを忠実に繰り返すのである。神殿においての祭儀では、毎年毎年、繰り返し神のみ言葉が高らかに朗読され、律法の規定にある通りに、生贄がささげられる。人々は律法の命じる通りに、安息日毎に、祭りの度毎に、同じ振る舞いを繰り返すのである。毎年、毎月、毎日同じことを繰り返すのでは、飽きるではないか、退屈するではないか、と思われるか。

一般に人間のこういう行動パターンを「ルーティン・ワーク」と呼んでいる。皆さんは、ひとつ二つ、何かそういうものを持っているか。ある人がこんなことを言っていた。「(生きることは)しんどい、そりゃしんどい。でも、意外に落ち着いてもいる。なんでかな、と考えてみると、一つの結論にたどり着くそれは、僕が「ルーティン」を持っているからだ。毎日、それこそ365日、同じ事を続ける生活。すでに10年以上続けている。『ルーチン・ワーク』を持っているということは、自分なりのベースラインを持っているということだ。心理的にも、行動的にも、『戻る場所がある』というのは実に安心感がある。コロナで荒れ果てそうな中、精神的に自分を保てられるのはそのおかげである」。

ユダヤ教では、「戻るべき場所」は第一に「神殿」であった。何が起こっても「自分の戻るべき場所」、「神殿」に行けば、逸脱しない、道をそれない、破れてしまわない、安定、安心、安全を得られる。ところが肝心の「神殿」が失われてしまった。もはや戻るべきところがなくなってしまった時、彼らには「律法」が残された。但し、「律法」は自分が守らないならば、守れないならば、もはや神の恵みから、はじき出されてしまうのである。要は自分なのだ、私が律法のルーティンをたゆまず続けられるどうか、克己勉励の孤高の生き方が、救いのための条件なのである。そうして自分自身を「まことのものの写し」にするのである。写すことができなければ、人生が何の意味も価値もなくなってしまう。

さまざまな仕事に職業病が付いて回る。保育士の職業病は何だと思われるか。若い保育士がみな経験するのが、両膝に残ってしまう黒いあざだという。ズボンがすれて穴が開くこともあるそうだ。多くの保育士の皆さんたちに話を聞いてみると、みな同じような体験をしていた。そうしてそんなあざができるのか。それは膝をつき、泣く子がいれば優しく抱きしめる。転んだ子をなだめたり、着替えや食事の手助けもしたりする。幼い子どもと同じ目線で接することを、何より心がける。一日の大半を、膝立ちで過ごすのは日常茶飯事だからというのである。そんな低い目線にしゃがんで子どもと接する、ひざの痛みなど、感じている暇はないというから頭が下がる。

今日の個所の最後の結語にこうある「世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」。「現れる」という言葉、また「献げて」という言葉が繰り返される。これらの言葉には、どちらも同じ意味合いが込められている。それは「低い所に降る、身を低くして仕える、すぐ目の前にある」という意味である。私たちは、自らを律して、克己啓発して、「まことのものの写し」になろうとする必要ない。どんなにがんばっても、人生で私たちは、素人が描く「写し」のようにしかなれないだろう。あちらがゆがみ、こちらが破れ、右が曲がり、左にへこむのである。しかしそのようなわたしの人生のすぐ前にお出でくださり、膝をついて抱きしめ、なだめ、介助し、共に居られる方がいる。その方は膝をあざで黒くするばかりか、罪人と共に十字架につかれて、血を流され、生命つきるまでに、共にあってくださった。

今日は「世界聖餐日」である。世界の教会が、一人の主、十字架に付けられよみがえられた主を見上げて、共にひとつのパンと盃に与る日である。コピーではなく、まことの神のひとり子が、私たちの生きている場所に降られて、共に生き、共に食卓を囲まれるのである。もう目の前に真の方がおられるのだから、写しは必要ないだろう。