「もっと強い者が」ルカによる福音書11章14~26節

ある有名な映画に、こんなシーンがある。二つのマフィアが抗争を続けている。片方のマフィアの頭領が跡を継ぐ息子にこんな忠告をする。「最初に(和平の)話し合いを提案してくるやつは誰であれ、裏切り者だ。それを忘れるな」。米映画『ゴッドファーザー』の名場面。ドン・コルレオーネの助言を忘れなかった息子マイケルは身内のテッシオこそが裏切り者と気づき、難を逃れる。そこまで人を疑いたくないし、映画の筋が国際情勢に当てはまるとも思わないが、この「仲介者」の名乗りには隠れた真意をよく見極める必要があるかもしれない(2月26日付「筆洗」)。

「まず平和を語りかけて来るやつは、裏切り者だ」、映画の中の、マフィア(悪者)の台詞に過ぎないのだが、何とも不気味に響くことばである。「悪」というものは、まして国際政治の駆け引きの舞台などでは、殊更に「さもありなん」、と思わせるようなリアルさが漂っている。「平和」という言葉に騙されてはならない。では、言葉など信用ならないというのなら、そこで決め手になるものは何か

今日の聖書個所、前回が「悪魔」が登場したので、今回は「悪霊」の出番である。「主イエスが悪霊を追い出しておられた」と福音書記者は記すが、この言い方は「いつものように」というニュアンスが感じられる物言いである。同じことの繰り返しは、私たちをうんざりさせるが、反面、同じことを繰り返すことで、心の安心や安定を得られるという側面もある。仕事や学業、あるいはトレーニング、リハビリなど、繰り返しで成り立っているものは多い。

礼拝もまた、同じことの繰り返しという側面を強く持つ。私たちが礼拝の度に口にする「信仰告白」は、「使徒信条」という、教会の古い信仰箇条(わたしたちはこのように信じています)なのだが、それには「神」「キリスト」「聖霊」それぞれをどのように受け止めているのかが、短いながらまとめられている。その中心は、やはり「キリスト」であるが、こう表現されている「主は聖霊に宿り、おとめマリアより生まれ」、つまり「降誕、クリスマス」が語られ、次いですぐ「ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架に付けられ」と、一気に「受難、十字架」に一気に場面が転換するような語り口である。

そこでやはりここに一つの問いが浮かんでくる。「イエス・キリストが、この地上でいったい何をなさったかということに全く触れられていない。」確かに、イエス・キリストの地上での働きは、降誕と受難と復活に収斂されるという理解が、使徒信条の中にはある。古教会は、そのように理解した。するとどうしても、「イエス・キリストの地上での働きは何だったのか。全くそれに触れていないではないか」という問いを呼び覚ますのである。もし、皆さんが「降誕」と「十字架」の間に、もっともふさわしい主イエスの生涯の働き、みわざを端的に記すとしたら、何を付け加えるだろうか。この福音書の著者ならば、「悪霊を追い出し」を付け加えるような気がする。「主イエスは(いつものように)悪霊を追い出しておられた」。確かにルカは、悪、悪霊にこだわりを持って福音書を描いている。どうしてなのか、今日の個所には、その理由がよく描き出されていると言えるだろう。

さて今日、目を向けるものは、「悪霊」なのだが、原文では「ダイモーン」という言葉であり、ことさら「悪」という意味合いは含まれておらず、古典ギリシャの文献の翻訳では、ただ「霊」あるいは「鬼神」と訳されることも多い。古代人は神ではないが、人間と神との中間的な、精霊のような存在と見なしていたようだ。アテナイの哲学者ソクラテスは、度々、「ダイモーン」について発言している。「わたしから、何か神からの知らせとか、鬼神(ダイモーン)からの合図とかいったようなものが、よく起こるのです。これはわたしには、子供のときから始まったもので、一種の声となってあらわれるのであって、それがあらわれるときは、いつでも、わたしが何かをしようとしているときに、それをわたしにさし止めるのであって、何かをなせとすすめることは、いかなる場合にもない(ソクラテスの弁明)」。この「ダイモーン」は、かの哲学者にとって「制止する」「押しとどめる」時の「声」として、働くというのである。これは便利かもしれない。何かまずい状況に陥ろうとする時に、先んじてストップをかけてくれるのだという。

今日のテキストでも、ルカはそうしたギリシャ的思考をよく理解しているから、「悪霊」が、「口を利けなくする」のだとコメントしている。余計な事をしゃべり、二言三言多いがために人間関係を損なうというのが、この世でのならいであるから、確かにしゃべり過ぎを押し留める霊なら好都合だろうが、必要なことまでも語れなくなったら、確かに困りものである。

この個所の直前のパラグラフは、「祈り」について主イエスが弟子たちに語る内容である。弟子たちが主イエスに願う「祈りを教えてください」。この時、弟子たちは最も大切で、最も必要な「ことば」、即ち、「祈り」を知らないのである。「祈り」はそもそも人間の内から出て来る言葉ではない。神からみ言葉を与えられて、それに対しての、魂の返事、応答が祈りなのである。だから神の言葉を聴くことなしに、祈ることはできない。弟子たちも皆、祈りの言葉を持っていないのである。そして主イエスに出会った人は、神からこの「ことば」つまり「聖霊」を与えられるのである。「あなたがたはどんなに悪人であろうと」。だから今日の個所で、主イエスの働きによって、「口の利けない人が、物を言い始める」、というのは、まさに前の段落を受けて、祈りの回復を物語っているであろう。

それでは今日の個所で、「悪霊」それは「口を利けなくする」働きをなすものだという。つまり人間から「言葉」を奪うのだ、という。そのように言葉を奪う霊が支配するような所で、何が起こるのか。そのすぐ後で、「『あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している』と言う者や、イエスを試そうとして、天からのしるしを求める者がいた」というのである。言葉が失われた時、人々は、「力」を問題にする。どちらが強いか、誰が強いか、どれ程の力を持っているか、だけを正しさの判断基準にするのである。悪霊を押し出す主イエスに対してすら、「悪の中の悪、一番の凶悪、ベルゼブルの力」によって、と見なすのである。

言葉が無力と見なされるところでは、ただ問題になるのは、「力」だけである。どちらが強いか弱いか、正しさや真実、愛すらも、「力」から判断されるのである。力のないものは、たとえどれほど正しくても、真実でも、空しいのである。愛なぞでは、腹は一杯にはならない、とうそぶくのである。力で支配されたら、あらゆる善意は吹き飛ぶ。失われた生命は、帰って来ないだろう。占領されたらどうするのだ。

ところが、力が競われ、殊更に勝ち負けが取りざたされ、力が支配するところで、何が起こるのか。秩序が保たれ、正義が貫かれ、万人の幸福が実現され、人々が安らかに過ごせるなら、それでよいだろう。しかし主イエスは言われる、17節「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう」。結局、力と力の競い合いは、何をもたらすか。内輪もめではないか、更に争いが激しくなるだけではないか。そして22節、「もっと強い者が襲って来てこの人に勝つと、頼みの武具をすべて奪い取り、分捕り品を分配する(だろう)」。結局、力に対して、もっと強い者が襲ってくる、その繰り返しではないか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」。あなたがたは、どんな強い、負けない力を持つというのか。結局、力は力によって、滅ぼされる。

今日の一連のテキストの終わりに、後日談のように、追い出された霊、ここでは「汚れた霊」がどのように振舞うか、いささか不気味な振る舞いが記されている。「出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く」。折角、断捨離して、ごみを捨てて、すべて部屋をきれいに掃除しても、穢れた霊がもう一度戻って来る、というのである。しかも他に7つの霊までも引き連れて、というのだからたまったものではない。元の木阿弥である。病気が繰り返すことのメカニズムの、古代的な理屈付けだろうが。

この譬話は、片付け下手で、片付けても片付けてもすぐにまた乱雑に散らかして、元の木阿弥になるようなだらしない自分を映されているようで、いささか身につまされるのだが、片付けの本質を教えているようも思われる。片付けについてこんなアドヴァイスがある。「片付けを始めた瞬間から、人生をリセットせざるを得なくなります。その結果、あなたの人生は変わり始めます。そのため、家の片付けは迅速に行う必要があります。本当に重要な問題に立ち向かうことができます。片付けは単なる道具であり、最終目的地ではありません。本当の目標は、家を片付けたら、あなたが最も望むライフスタイルを確立することです」(近藤麻理恵)。

自分の居場所をきれいにして、整頓して、それで終わりではない。実はそこが始まりなのである。もしがらんどうの空間が広がっているだけなら、そこからは何も起こらないだろう。そればかりか、「そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」と主は言われる。主によって、悪霊の力から解放された。もはや私たちは、自分の力を求めて生きるのではない。しかし私たちは、力に頼らず、今度はどちらに目を向け、歩みだすのか。その目的地や方向がまったく見えなければ、結局、そのまま何もないところに座り込むだけになるだろう。20節で主はこう呼びかけている「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。主イエスは神の指だと言われる。その御手の指の指すところに、神の国があるという。それは何を指し示しているか。やはりそれは十字架の道であり、主のご受難への歩みである。十字架を通してしか、神の国は示されないのである。