祈祷会・聖書の学び サムエル記上20章24~42節

天気の良い日には、二人乗りだが、一度、荒天になれば一人乗せるのがせいぜいな小舟」。アンブローズ・ビアス著『悪魔の辞典』の「友情」の項の文言である。「まさかの時の友が、真の友」という英語の格言がある。これをビアス流に一ひねり加えたのか,かの知恵なのかもしれない。「悪魔」は恐ろしく孤独な魂の持ち主なのだろう。

国語の教科書にもしばしば取り下げられる、太宰治の手になる『走れメロス』は、友情物語の典型として夙に知られている。一本気で朴訥な田舎者メロスが、身勝手な王に談判すべく王宮を訪れる。すぐに王の生命を狙う不逞の輩と捕らえられ、処刑されることなる。妹の結婚を済ませたらすぐに戻ると王に約束し、長年の友人セリヌンティウスを身代わりに獄に置き、帰郷する。その帰途に幾重もの突発事態や誘惑が彼を襲い、瞬く間に約束の時は迫る、果たしてメロスは間に合うか。

この作品の源は、古代ギリシャのピュタゴラス派の伝承が基になっており、後代、さまざまな書き手によって、例えばローマ時代の作家たち、そして近代では詩人のシラーが翻案し、作品化されてきたが、この国の代表作家、太宰治も見事な文筆の才で再話し、傑作をものしたと評される。もっとも、この作品の背後には、リアルな作家自身の体験も見え隠れしていると指摘される。

熱海の旅館からいつまでも戻らないのを心配した作家の妻は、友人である檀一雄に「様子を見て来て欲しい」と依頼した。現地を訪れた友人を引き止めて、作家は連日飲み歩いた挙げ句、預かってきた金を全て使い切ってしまった。太宰は、飲み代や宿代のつけに、人質になってくれるよう友人に頼む。自分の身代りに留まってくれれば、金を工面してくるから、ということであった。太宰は、友人を宿に残して、師の井伏鱒二のところに新たな借金を頼みに行くが、中々戻って来ない。痺れを切らした檀は、井伏のもとへ駆けつけるが、井伏と太宰が呑気に将棋を指している。激怒する檀に太宰は言う「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」 小説の潔さと現実は、随分違うものであるが、腐れ縁とはこういうものだ。

現在のサムエル記上に収められている、「ダビデ台頭記」には、物語を聴く者を魅了するいくつかのクライマックス部分、印象的な舞台が設えられている。こういう構成上の巧みさを見るにつけ、これを記した歴史家の並々ならぬ手腕を感じさせられる。印象的な舞台のひとつは、それまでサウルの従者に過ぎなかった少年ダビデが、世に出るきっかけとなった出来事、ペリシテの武将ゴリアトとの一騎打ちの場面である。これほど強烈なインパクトを与える道具立てはないだろう。この出来事によって、ダビデの名声は否が応でも急速に高まり、そしてその背後に澱んだ醜い嫉妬の炎が、ちろちろと燃え始めるのである。ダビデの仕えるサウル王が、自分の子供ほどの年齢の若者に、激しく嫉妬し、憎悪し、挙句の果てに、生命をも奪おうとするのである。光と影、闇と光を交互に描き出すという手法で、歴史家はユダの激動の時代を大河ドラマの如くに記そうとする。

さて今日の個所は、もう一つのクライマックス舞台とも言える逸話である。ゴリアトとの一騎打ちが、百花繚乱に咲き乱れる花々のようだとすれば、こちらは静謐に落剝する一輪の花の趣である。ダビデが王位を手にして行く物語が、単に時代の流転による政権の交代だけを記すものならば、それは単に権力者たちの抗争の記録であって、血涙絞るドラマとは到底なりえない。

ダビデとサウルという新旧の英雄たちの相克、つばぜり合いの中に、翻弄される幾多の人間たちの生き様を、ないまぜに描くところに、文学としても見事さがある。実にヨナタンは、親友ダビデと実の父親との間に板挟みとなって、互いをとりなし、何とかこの反目する両者をつなぎとめようとする、いわば「破れ口に立つ者」としてふるまうのである。それはただひとえに「愛」から出たまこと故なのである。こんな風に、どちらにも身を寄せることができず、中途半端に、間に立ち続けるという人間性は、古代の文学の描く所とは思えない非凡さがあるだろう。敵か味方か、白か黒か、右か左か、という極端な二分法が、いかに底の浅い乱暴な区分けであることか。現代でもそのような低俗な二分法が、政治の世界はじめとしてあらゆるところで幅を利かせているではないか。

年若い王子は、誠心誠意、父親をなだめすかし、さらに親友との仲を取り持ち、和解させようと試みる。父王の心配は分からぬではない。サウル王家の行く末、即ちヨナタン自身の将来にも直にかかわって来る運命を、父はしかと見据えているのである。31節「エッサイの子がこの地上に生きている限り、お前もお前の王権も確かではないのだ。すぐに人をやってダビデを捕らえて来させよ。彼は死なねばならない。」ただ息子の目からしても、父王の見当識は極端過ぎると映ったのだろう。必死になだめる実の子の言葉にも耳を貸さず、怒りに任せた父王は、ついに槍を振り上げて、彼に投げつける。もはや父はまともに事柄を認識する力を持ってないと悟った息子は、最終的な決断を下す。友ダビデを逃れさせ、彼の身の安全を第一に保つべく行動する。親友を父から引き離し、遠くに逃れさせるということは、おのずと自分との「別離」をも意味する。自分が何か失うことなしに、安全地帯にいて、誰かの生命に関わることはできない、ヨナタンもそうであった。

親友との耐えがたい別れに際して、ヨナタンはこう語る、42節「安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから。」この別れの言葉には、ヨナタン自身の生き方がそのまま投影されている。そしてそれ以上に、神がそのような方であることを、告白していることに留意したい。自分の生きている現実と、神の現実は、決して無関係ではなく密接につながっているのである。ここでヨナタンは、自分とダビデの間を問題にする。人間は「人の間」と書くように、間こそが問題なのである。人間と人間は、どれ程親密であっても信頼できる間柄であっても、そのまま直接つながることはできない。間に何があるのか、「間におられる神」、ここにひたすら目を注ぐのが、ヨナタンという人間なのである。今生の別れを告げたヨナタンは、この後間もなく、父王と共に戦に出てゆき、戦場の露と消える。悲しいかな、懐かしい友ダビデとの再会は、かなわなかったのである。