「わたしが選んだ」ヨハネによる福音書15章12~17節

「一個のリンゴは医者を遠ざける」、昔から伝わる西洋の諺であるが、皆さんは、果物がお好きでよく食べているか。「健康にはいいが、近ごろは値段が」と言われる向きもある。この国の果物は、格段に美しいが、格段に値も張る。ある人が「私はリンゴを食べない」と言う。理由を尋ねると、「小さい時分、八百屋にリンゴを買いにお使いに行かされた。スターキングを買ってお出で」と言われて出かけたが、八百屋で「キングスターください」と言い間違えて、店員さんやお客さんからひどく笑われた。「それ以来、嫌いになった」という。根に持つタイプの人である。

さて、往年の黒人ジャズの名歌手、ビリー・ホリディの歌う曲に『奇妙な果実』という有名な曲がある。1939年にLewis Allenによって作詞、作曲された名曲であるが、他の人はなかなか歌わない、否、歌えない曲である。こんな詩が綴られる、「南部の木は、奇妙な実を付ける/葉は血を流し、根には血が滴る/どす黒い身体は南部の風に揺れる/奇妙な果実がポプラの木々に垂れ下がっている」。“Strange Fruit”この歌を聴く人は、アメリカ南部の黒人人種差別を象徴的に歌ったものあることがすぐに分かるであろう。南部を中心とした黒人へのリンチや暴行、暴力は、当時のアメリカ人にとってはほとんど周知の茶飯事であった。この歌は多くの人々が知っていて、しかし沈黙している事実を、聴く者にあからさまに突きつける。沈黙している無言の人々の心に深く問いかける。しかしもちろん内的な憤りはあるにしても、人間のそのひどい振る舞い、残虐な仕打ちを激しく怒り、憎悪するという調子で歌われてはいない。ビリー・ホリデイはこの歌を本当に悲しそうに、あるいは言葉を口にすることさえ苦しそうに歌うのである。

創世記2章にはエデンの園の有様が、こう記されている。「主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生え出でさせ、また園の中央には、命の木と善悪を知る知識の木を生え出でさせられた」。そして「園のすべての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう(お前は破滅・破綻する)だろう」。一本の禁断の木を除いて、意のままに食べよと言われるのである。但し、曰く因縁の、禁断の木の実もまた、「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるには好ましい」美しい実をつけているのである。そもそも園の「果実」は、人間の丹精の手の業ではなくて、神の実らせたもう恵みの実りなのであり、人の心を喜びに満たす賜物なのである。ところが、方や人間の実らず果実は、“Strange Fruit”なんと醜い、血なまぐさい、呪われた果実であることだろうか。そして現在、その忌まわしい果実はすべて摘み取られ、根絶やしにされているかといえば、決してそうではない。

今日の聖書の個所は、この章の冒頭から始まる「主イエスはまことのぶどうの木」の譬えの終結部分である。16節「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように」、こうした主イエスの祈りの言葉によってパラグラフは閉じられる。

今日のテキストの段落に収められている文言は、一つひとつの言葉が実に味わい深い響きを持っている。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの(ただ一つの)掟である」。 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。これらの章句を目にしていると、ひとつ一つの言葉が、それだけで独立した断片として、鋭く語りかけて来るようだ。おそらくヨハネは、現在ではどこかに散逸して閲覧できない、「主の語録集」というような記録あるいは資料を手に入れているのだろう。その語録集の中に、こういう断片的な主の言葉が記録されていたのである。そしてヨハネは、適宜その語録から、物語の状況にピッタリくると思われる言葉を抜き出して、記しているのだと思われる。

それにしてもいい言葉が、ここには詰め込まれている。珠玉のごとく、ここぞとばかり散りばめている。本来はどんな状況で、主イエスは口にされたのだろうか。みな、暖かな調子である。弟子たちを「僕」つまり奴隷でなしに「友」と呼んでいる。古代世界で、人間関係ひとつとっても、型にはまった年功序列、縦割りの上下関係、支配関係の分断社会にあって、「あなたがたは友だ」と呼ぶのである。さらに「その友のためにわたしは命を捨てる」のだとその師は言う。さらに戒めとか、決まりごとはたくさんはいらない、ひとつで十分、「愛し合え」それだけだ。どのみ言葉も、当時の習慣、物事の秩序、常識からすれば、完全にひっくり返った、とんでもない逆説の言葉である。

これらの中で、最も桁外れなのはどれか。16節「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」である。ミッション・スクールでは、大体、入学式等で、校長はこの聖句を新入生たちに語ることになっている。「あなたが入学したのは、自分の意志だと思っているかもしれないが、実は神様が選んでくださったのだ」。しかし、およそ先生の方から弟子の成り手を求めて、出かけて行き、自分の方から声を掛けて弟子を選ぶなどということがあれば、その先生は余程、力量のない、頼りにならない、当てにならない教師である。ところが主イエスのみ言葉ばかりか、聖書に貫かれている論理は、実にこうした「神の選び」なのである。古のイスラエルの民もまた、神自ら「選ばれた人々」であるが、それはどの民族よりも「貧弱」だったからだ、と語られる。それは何ゆえか、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」、実を結ぶことができるように、というのである。

こんな文章を読んだ。「赤ちゃんは時々、はっきりとした理由がないけど泣き続けることがある。『たそがれ泣き』と呼ばれるものだ。新たな情報や刺激を頭の中で整理できず、疲れがたまることなどが要因とされる。赤ちゃんの気を紛らわしたり、不快感を取り除いたりと対策はさまざま。その中ですぐにできるのは、親が優しく寄り添うこと。泣いているわが子を受け止めることが大切なようだ。赤ちゃんじゃなくても泣きたくなることはある」(4月30日付「金口木舌」)。

確かに赤ちゃんは、時折、もの寂しいたそがれ時(薄暗くなり「彼は誰ぞ」、に由来するという)に理由も分からず、激しく泣き続けることがある、それを「たそがれ泣き」という言い方があるのかと初めて知った。言い得て妙である。訪れて来るものを、小さな自分の心の容量(キャパ)が越えて受け止めきれず、溢れそうになってしまう、それをどうにもできないので、泣くことによって、洪水を逃して、何とか心の堤防の崩壊を防ごうとしている、と説明できるのだろうか。問題は「赤ちゃんでなくても泣きたくなることはある」という事実である。「泣いてはあかん、大人なら我慢しろ」でことが済めば話は簡単なのだが、そう健気に行くものだろうか。私たちは、どこで泣くのか、誰のところで泣くのか、我慢してただひとりで泣くのか。

先の日曜日に、この教会の草創期の教会員だった方の、お子さんご夫妻が教会を訪ねて来られた。お母様が(現在、遠方の施設で暮らされているが)現在98才になられたという。そして、今、かつて集ったこの教会のことを、口にされるらしい。「母は父が亡くなってどうしようもなく、どん底の時に、ここに来ましたから」としみじみと語られた。今は距離は遠くにあっても、つながる絆、「ぶどうの枝」が保たれているのである。

「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」と主イエスは言われる、「出かけて行って」、いろいろな事情、仕事や結婚、子育てによって、私たちは色々な所に出かけて行く、聖書的に言えば「遣わされる」。確かに距離的には「離れる」のである。しかしたとえ遠くにあっても、「ぶどうの枝」は切れて失われて、お終いになるものではない。人間の側では、切れてしまったかに思えるだろうが、その絆は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」というつながりの枝であって、「その実が残る」、つまり、その実によって、最期まで養われる、というのである。人間は「奇妙な果実」ばかりを育て、実らせているように見える。それでどうにもならないで、人生の「たそがれに泣く」のであろう。しかしそれでもなお、そこに残るものがある。「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるため」、それこそ人生の「まことの果実」である。