「わたしを捜しても」ヨハネによる福音書7章32~39節

「木を見て、森を見ず」という格言がある。「物事の細部にとらわれると、全体を見失う」という意味である。木だけを見ていると、森全体を見ることができないということから、「些細なことにこだわり過ぎると、物事の本質や全体像を見落とすことがある」という警句のように口にされる。元々は”You cannot see the wood for the trees”(木を見ているがために森を見ることができない)という英語の諺から来ているといわれる。
5月の始め、岐阜新聞が紙上でユニークな広告を打った。黒い背景の上に、水の泡のように、大小の白いボールが沢山くっつき合って図案を作っている。一見、これは何を表わしているのだろうと疑問に思う。絵の下部にこういう一文が記されている。「自分を守るため、大切な人を守るため、今は人との距離を保ちましょう。またいつの日か、いつもの距離を取り戻すために。ソーシャルディスタンス。二メートル離れて見てください。皆さんの思いが現われます。一日でも早く、平穏な日常が取り戻せますように」。
そこで、2メートル離れて見ると、白いボールの間に「離れていても心はひとつ」という文字が浮かび上がってくる。コロナを巡って、「クラスター(感染者集団)、ロックダウン(都市封鎖)、ソーシャルディスタンス(社会的距離)、ステイホーム(家にいよう)」等、これまでなじみにない耳慣れない外国語を耳にする。ある学者はこう語っている。「目に見えないコロナ」が「こころ」に与える影響は甚大です。社会的距離(ソーシャルディスタンス)が叫ばれています。これは公衆衛生上で使われるときには感染防止を予防するために、意図的に人と人との距離は保つこと、日本では2m程でしょうか。しかし、本来これは非常にストレスなのです。人は人と交流していくことで安心感を生みます」。
「距離を保つことは、本来、非常にストレス」であり、「人と人とは共にいることで安心感を生む」のだという。確かにそうである。それがいかに重要な事柄であるかは、日本語に「間」に因む慣用句が多いことでも分かる。「間がいい、間が悪い。間が持たない。間に合わない。間を配る。間抜け」等など。この国の人間が、人と人との丁度よい距離に、随分と悩んだことが、言葉数からも伺える。
教会暦では、今日の聖日は「昇天日」である。復活の後、主イエスは40日に渡って弟子たちはじめ、多くの人々に、ご自身を顕わされ、生きて働き給うことを示された。そして私たちと「いつも共に」いて下さることを、約束してくださった。ところが、主は昇天され、地上から天に上って行かれた、というのである。次の週には、聖霊降臨の出来事が起こり、見えない姿ではあるが、霊としてキリストは、教会に来たり、宿られたのである。それなのにどうしてあえて「昇天」という出来事が必要なのか。
代々の教会は、次のように理解してきた。「キリストが天に昇り、神の右の座に着いたということから、人として神の栄光の状態に上げられ、父なる神のもと、最高の権威を付与された。さらに主の昇天には、私たちの未来が示されている。即ち、キリストの昇天が、私たちの昇天の原型、また保証であり、人に先駆けて、天の栄光に入られたキリストに倣って、いつか私たちも、御国において、主イエスと共にいることができるという希望が与えられている」。つまり、私たちの地上の生涯が終わっても、私たちは決して、主と引き離されることはない、そのことを確かに示されるために、主は天に上られた、というのである。確かにこのことは、喜ばしい音信には違いない。
ところが、今日の聖書個所は、いささか異なるニュアンスで、主の昇天が語られている。33節「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」。「捜しても見つからない、いる所に、来ることはできない」、聞きようによっては、冷たく響く言葉である。この言葉を聞いたユダヤ人たちも、主イエスが何を伝えたいのか、分からずに、当惑の色を隠していない。「ギリシャ人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシャ人に教えるとでもいうのか」。
このユダヤ人の言葉に、当時のキリスト教の宣教の実際が、詳らかにされているだろう。使徒言行録やパウロの手紙等に記される異邦世界(ヘレニズム世界)への宣教は、最初期には離散(ディアスポラ)のユダヤ人の会堂(シナゴーグ)を舞台にして、行われたと考えられている。ユダヤ教のようなのだが、ユダヤ教と違う新しさを持っている、と「福音」は、受け止められた。ナザレのイエスの教えは、ユダヤでは受け入れられなかったが、ユダヤ教から訣別したことによって、異邦世界に根付いていった。故郷からの出発が、別離が、新しい可能性を生み出した、という所だろうか。
ここで主イエスは、「別離」あるいは「距離」を取ることの重要な意味について語っている。「共に」ということは、「距離」と密接につながっている。即ち、「距離」のない「共に」は、「共依存」を生む危険をはらむのである。誕生して間もなくまでは、子どもと母親とは一体である。しかしそれから後は、子は一方的に親から離れる歩みを始める。自分で動けるようになると、やがて親の目の届かない所に、ひとり隠れて過ごすことが増えて来る。ある幼児教育学者は、「親の見えない所で、心が創られていく」と言い表しているが、「距離」がそれを可能にするのである。「人はその父母を離れ」(創世記2章24節)と語られるとおりである。
子どもにとって、親との距離を初めて自覚するのは、幼稚園や保育園に入園するときだろう。門の前で親と子は別れ、離れ離れになる。最初の一週間程は、子どもは園舎で泣き続ける。親の方も門の前で立ち去りがたく、中をうかがうのである。最近は、入園して親と別れても、全く泣かない子どもがいるという。「大人しく手がかからない子ども」という印象を受けるが、実際、後で問題を抱える子は、泣かない子なのだそうである。
親と離れることで、自立した心や自尊心が育まれる、と言われる。それは「別離」の淋しさに耐える経験の賜物であろうが、もっと大切なのは、離れても「変わらないもの」があることを、「距離」を取ることによって知り得るからである。姿は見えなくても、子は親の心が、自分に向けられていることを知るのである。一週間泣きながら、「変わらないもの」を捜し、そして発見する。それは親の「愛」である。私たちにはいわば「距離に耐える愛」が必要なのである。
そして「距離に耐える愛」がもたらすものは、何か。「わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって、流れ出るようになる」(38節)というのである。主イエスから水を与えてもらう、というただ一方的な恵みを享受するのではない。そこから、自らが水源となって、自分自身を潤し、さらにその水を他の人と分かち合えるようになる、というのである。
「ハッピバースデイ」または「うさぎとかめ」を2回繰り返して歌う。何のことかお分かりだろうか。手を洗う時、口ずさめば、除菌に効果的な30秒の目安になるという。代わる代わる歌って、楽しく手を洗うというのはどうか。では手を洗うのは、何のためだろうか。「手を洗う時、何のため、誰のためか想像してほしい。見えない先に、守るべき高齢者や基礎疾患のある人、医療者がいる。自ら意味を見つけて行動することで耐えられると思う」、ある大学病院に働く医療従事者の言葉です。すぐ近くの見える所にいる人、自分や他人のことを考えて行動すること、は大切な視点ですが、見えないものや人に目を注ぐ、というのは、信仰的な在り方である。「距離」があってこそ、そこに働く愛の力が問われる。主イエスが愛する弟子たちと別れて、距離を取られたことに、深く心を伸ばしたいと思う。