「キリストの思いを抱いて」コリントの信徒への手紙一2章11~3章9節

先週、6日、9日、ヒロシマ・ナガサキでそれぞれ「平和記(祈)念式典」が挙行された。79回目の原爆忌である。ヒロシマの平和式典で、二人の子どもたちによって「平和の誓い」が語られ、また何人かの代表者のメッセージが伝えられた。その中で、子どもたちの言葉、また広島県知事の言葉に、同じ単語が口にされたのを聞いて、深く問われる思いがした。79年という年月の経過が、そのひとつの言葉に凝縮された、とも言えるだろう。

子どもたちはこう語った「目を閉じて想像してください。緑豊かで美しいまち。人でにぎわう商店街。まちにあふれるたくさんの笑顔。79年前の広島には、今と変わらない色鮮やかな日常がありました。『ドーン!』という鼓膜が破れるほどの大きな音。立ち昇る黒味がかった朱色の雲。人も草木も焼かれ、助けを求める声と絶望の涙で、まちは埋め尽くされました。」。

また広島県知事、湯崎英彦氏はこう語った「想像してください。ある沖縄の研究者が、不注意で指の形が変わるほどの水ぶくれの火傷を負い、のたうちまわるような痛みに苦しみながら、放射線を浴びた人などの深い痛みを、自分の(今の)痛みと重ね合わせて本当に想像できていたか、と述べていました。誰だか分からないほど顔が火ぶくれしたり、目玉や腸が飛び出したままさまよったりした被爆者の痛みを、私たちは本当に自分の指のひどい火傷と重ね合わせることができているでしょうか」。自分の傷の痛みを、自分だけのこととしないで、思いを拡げよ。

この両者が共に聞く人に「想像してください」と語りかけている。「想像、イマジン」この言葉はすぐに、今は亡きある人が歌ったひとつの歌を思い起こさせる「想像してください、天国はないと/簡単でしょう/足下には地獄もない/上には空があるだけ/想像してください/すべての人が今日を生きていることを/想像してごらん/国などないと/難しく考えないで/殺す意味も死ぬ意味もない/宗教もない/想像してください/人間皆が/平和に生きていることを」(ジョン・レノン“Imagine”1971”)。

半世紀を過ぎた古い歌だが、その時代にすでに「想像する」ということが、人間の問題として提起され、それから決して短くない年月を私たちは過ごして来て、今、ほんとうに私たちは想像する能力を欠いてしまったのではないか。現代では「想像」とは、コンピュータのAIが作ってくれる実に見事な映像であり、人間はただそれを見るだけのことで、頭の中の世界を自分の力で広げようとしないから、すぐ隣にいる人間の心すら、まったく考えることができない、まして自分のことすら顧みることもできなくなっている、のではないか。例えば、自分の発するひどい言葉が、それを直に聞く人間にどう突き刺さるのか、聞く人の脳みそに実際に損傷を与えるという臨床医学の報告があるが、自分の言葉の行方すらも、まったく考えずに発するのである。これはどこかの国のミサイルと同じである。「想像することができない」、これが私たちの現実であり、深刻な課題なのだと言えるだろう。

今日の聖書個所、いささか長いパラグラフが読まれたが、この個所にはひとつの主題が貫いて語られている。何度も繰り返し語られる用語がある、2章だけで12回繰り返されている。“霊”(プニューマ)という言葉である。新共同訳ではコーテーションマーク(引用符)が付与されているが、原文にはそんな記号はない、というのは、「霊」というと普通「幽霊・亡霊」というように何かおどろおどろしい印象を与えるので、これは「神の霊、聖霊」のことだとすぐ了解されるような工夫である。基本的には、聖書は、神の霊も人間や動物の霊も、「霊」という一語だけで表す。例外的に「悪霊」の場合は、きちんと「悪い霊」と表記をするが、あとはみな「霊」一語である。この語は、「風」あるいは「息」の意味をも表している。ここから「神の霊」のイメージが把握されるであろう。奥深く鎮座まします、のではない。それには動きがある、強弱がある、身体に感じられる、温もりがある、音(ことば)が伴う、ひとつところに留まってはいない、ここに吹いて来る、私の所にやって来る、向こうから訪れるものである。

だから10節で「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます」という主張がなされるのである。このみ言葉の背後には、最初の人、アダムの創造が強く意識されているだろう。「神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息(プニューマ)を吹き入れられた、それで人は生きる者となった」(創世記2章6節)。アダムとは「人間」という意味である。最初の人、アダムと共に、わたしたちひとり一人もアダム(人間)であり、神が霊、命の息(プニューマ)を私の中に吹き込んで、明らかに示してくださる、一切の事柄を神の深みでさえも、知ることができるように」、というのである。生きるということ、生きているとはどういう事態かがここにはっきりと示されている。

生物学的には、「生きている」というのは、心臓が動いて血液が流れ、呼吸をしている、つねれば痛いし、蚊が刺せばかゆい、腹が減っては力を失い、へたり込んでしまう、ということだろうが、それだけが「生きている」ことではない。生きることは、「そのこと」を知ることができるということだという。「そのこと」とは、すぐ前節の「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」というのである。「神が準備されたことを」、「準備」というのは、神があなたのために特に誂えた、整えた、用意計画された、ということで、いわゆる「ギフト」のようなニュアンスである。今まで見たことも聞いたこともなく、自分の心に思い浮かぶこともなかった、思ってもみなかったことを、示される、明らかにされる、それが神の与えるギフト、準備なのである。12節「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたもの(ギフト)を知るようになったのです」。信じて生きるとは、神からのギフトを与えられ、そのギフトによって自分自身について、自分の人生や運命について新しく発見し、自分の置かれている世界についても、隣人についても、新しい目で見ることができるようになる、ということなのである。だからここで、「霊」を受ける、神から「霊」が与えられるというのは、「想像、イマジン」が新しく、豊かに広がることだ、と言えるだろう。神の霊は思ってもみないところに私たちを押し出し、私たちの目を開かれるのであるから。

ところが、私たちは残念なことに、神の「霊」、神の与えてくださる想像力ではなくて、肉の思い、全く想像力を欠いてしまった、狭苦しい自分の見方に縛られて、自分の見方が現実的だ、自分の方が実際的だと、神のイマジンを封じ込めてしまうのである。3章3節「相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」。教会の中で、誰が偉いの、誰が正しいの、誰が高貴で誰が卑しいだの、誰の経歴が、出自が、知識が優れているだの、すぐに比較や牽制を始めるというのである。一体、神の霊はどこに行ってしまったのか、そのギフトであるはずの想像力はどこに行ってしまったのか。

子どもたちの語る「平和の誓い」はこう続く「今もなお、世界では戦争が続いています。79年前と同じように、生きたくても生きることができなかった人たち、明日を共に過ごすはずだった人を失った人たちが、この世界のどこかにいるのです」。79年前の出来事は、今の時と繋がっている、生きたくても生きることができなかった、明日を共に過ごす人を失った人たちが、この世界のどこかにいる」。まだ見たことのない、顔も知らない人たちのことを、心に覚えて、それを記憶し、その人々の人生を、自分の胸に刻もうとすること、これこそ「想像力」の行きつくところ、神の与えて下さったギフトの恵みではないのか。さらに誓いはこのこの言葉を持って閉じられる。「さあ、ヒロシマを共に学び、感じましょう。平和記念資料館を見学し、被爆者の言葉に触れてください。そして、家族や友達と平和の尊さや命の重みについて語り合いましょう。世界を変える平和への一歩を今、踏み出します」。神の霊のギフトは、まことの言葉を私たちに与える。被爆者の言葉に触れ、家族や友人と、平和や生命について、共に語り合うこと、この力が与えられる、回復されるとは、何というすばらしい、思ってもみない恵みであろうか。

「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」、これを手紙の2章の終わりには「わたしたちはキリストの思いを抱いています」と語られる。使徒パウロがこの手紙を通して、コリントの人々の心に思い起こさせようとしている事柄は、これひとつだけである。人間の思いではなく、キリストの思いだけが、問題であり、神を信じて生きるとは「キリストの思い」を与えられること、それは十字架の道を歩まれた主イエスの真心を知らされることである。即ち、人間たちから捨てらえれ、十字架に釘打たれ、血を流して亡くなられ、墓に葬られた、その悲劇ともいえる人生は、その先に、神が準備された復活があるということ、そしてその神の準備のみわざは、実にあなたの人生にも及んでいるという呼びかけを聞くことである。

「目を閉じて想像してください」。「平和の誓い」を語る子どもたちは、こう私たちに呼びかけている。まことに象徴的な聞こえる。「目を閉じて」、目に見えるもので判断しないでください、あなたが見ることだけで決めつけないでください、ほんとうのことは目に見えないんだよ、というの有名な言葉を、思い起こさせる。「想像してください」、あなたの心を、もっともっと広げて欲しい、自分の外にも、周りにも、世界にも。どこに心を拡げるのか、十字架につけられ、十字架上で祈られたあの方にまで、心を拡げるのである。「わたしたちは共にキリストの思いを抱いています」、キリストの思い、キリストの心を、広く深く、私たちの心に拡げようではないか。