「夕方の三十分/僕は腕のいいコックで/酒飲みで/オトーチャマ/小さなユリのご機嫌とりまでいっぺんにやらなきゃならん/半日他人の家で暮らしたので小さなユリはいっぺんにいろんなことを言う/『ホンヨンデェ オトーチャマ』『コノヒモホドイテェ オトーチャマ』/『ココハサミデキッテェ オトーチャマ』/卵焼きをかえそうと 一心不乱のところに/あわててユリが駈けこんでくる/『オッシッコデルノー オトーチャマ』/
だんだん僕は不機嫌になってくる」(黒田三郎『小さなユリと』)
奥様が入院のために不在となり、父親である詩人が小さな子どもと暮らす日常を描いた、ユーモラスな作品である。ひとりいないだけで、家族もこんなにドタバタの日常にてんてこまいするものか。
こんな話を聞いた。子育て奮闘中のお家では、砂糖を白ではなく茶色い色のついた「三温糖」にする傾向がある、というのである。その理由は何か?「身体や健康に良い」、「味がまろやか、やさしい」、「素朴で手作り感がある」等々、いろいろその理由を上げられそうだが、「砂糖」は「砂糖」、甘いのに変わりはない。実はそのほんとうの理由は、非常に実際的、現実的なところにあるらしい。黒田氏の詩ではないが、調理中で忙しく立ち働いていても、小さい子どもは親にいろいろなことを求めて言ってくる。それはどの家庭でも同じだろう。そして料理での肝心要は「味付け」であるが、「塩」と「砂糖」を入れ間違えることこそ、最大の悲劇であろう。多忙な中でも、この2つを入れ間違えないような知恵、それが「三温糖」即ち、茶色の砂糖なのである。
さて、マタイ福音書12章は、マルコ2~3章の「論争物語」を基にして、マタイの手元にあった伝承(ルカもまたその伝承を利用しているので、既に文書として初代教会に流布していたのであろう)を付加して構成されている。今日の聖書個所は、章の最後の3つのパラグラフの部分だが、「イエスの親族」にまつわる逸話によって物語が閉じられるが、この伝承は、マルコの記述によっている。個々のパラグラフはそれぞれ独立した物語として理解できるが、やはりただ断片的伝承を並べただけ、という訳ではなく、やはり福音書記者たちの編集の意図が隠されていると言えるだろう。このように構成された物語に流れるモティーフを探りたいと考える。
まず38節から42節までは、「ヨナのしるし」「南の女王(シバの女王)」の話題が取り上げられて、「しるし」、現代的にいうなら「エビデンス」を巡っての議論が展開されている。この個所は非常に現代的な問いを投げかけていると言えるだろう。つまり「確たる証拠(エビデンス)」によって「真実」は明らかにされる、という議論である。何ら明白な根拠、客観的な裏付けなしには、無前提に受け入れることはできない、というのは正論であろう。新薬の承認や裁判での判決等は、それなくしては成り立たないであろう。ところが「証拠がなければすべて虚偽」というのも、いささか狭量すぎる見方である。「疑わしきは罰せず」というけれども、「疑わしき」というところで、人間の問題は多くを占めているし、白でも黒でもない「灰色」の部分で、人間は生きている現実がある。もし「証拠」だけでことを運ぼうとしたら、生活自体が成り立たない、ということになりはしないか。ヨナという預言者としてどうか、と首をひねりたくなる人物によって語られた「み言葉」によって、ニネベの人々は悔い改め、赦されたのである。あるいは、何の保証のないのに、「知恵」という形ないものを求めて、祖国からはるばる旅をし、ソロモン王を訪問したあの南の女王(この世では酔狂の極みとも思える)の故事を、私たちは笑えるだろうか。そもそも人間の営みというものは、こうした論外、計算外のゆらぎがあるからこそ、楽しいのではないか。
また、「戻って来た悪霊」の物語は、実に辛辣である。病気が良くなったかに見えて、またぶり返す、ということが今でもある。散々やんちゃして皆に迷惑をかけ、手を焼く振る舞いをした人物が、ある時、心を入れ替えて180度変化し、真っ当な生き方をするようになる。皆がその変わりように驚くのであるが、いつしかまた180度変化して、元の木阿弥ということがある。なぜそのようなことがあるのか、主イエスに問うた人が居たのだろう、それに応えての主イエスの見解である。きれいに掃除され、整頓された部屋に、これ幸いに追い出された悪霊が、他の仲間を大ぜいを連れて立ち戻る、というのである。それなら元のまま、却って乱雑で散らかったままの方が良かったのではないか。
「病気が治る」、「心を入れ替える」という人間の変化も、いいことばかりではない、そこから新たに生じて来る問題がある。新しい課題の前に立つ時、人間は不安になり、怖れたじろぐのである。昔覚えた歌は心地よいものだ。しかし、もとのままが良かった、昔はよかったというノスタルジーに浸ることで、今の私がそのままでいることはできない。いつかこの世から旅立たねばならないのだ、その旅支度はどうするのか。
そして最後のパラグラフで、「主イエスの家族、親族」について語られる。母と兄弟たちが、主イエスと話そうとして戸口に立っている、という。「話そう」というのは、少し世間話をしよう、というのではあるまい。家族揃ってというのだから、ナザレの家に帰らず、家族のことを顧みないで余所に出歩くイエスを、たしなめ説得し、連れ戻そうという魂胆なのだろう。30才過ぎの大人は、家族にとって生計の大黒柱であるから、ほっつき歩かれたら世間体も悪いし、家計が持たない、ということだろうか。そこでの主イエスの応答は、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」今、主イエスの周りにいる無数の人々、血の繋がりなどないが、神の縁によって結ばれた人々を、主イエスは「家族」と呼ぶのである。
さて、この3つの別々の話を、どうつなげて理解することができるだろうか。人間にとって、確か、確実と言えるものは何一つない、ということか。人生の営みは、「証拠」だけで成り立つものではなく、良いだけの変化もないし、血のつながった家族が居れば、大丈夫、というわけでもない。それならば、何に目を向ければ良いのか。最初に紹介したかの詩の結末は、このような文言で閉じられる「それから やがて しずかで美しい時間が やってくる/おやじは素直でやさしくなる/小さなユリも素直にやさしくなる/食卓に向かい合ってふたり座る」。幸いとはこういうものかとしみじみと感じさせられる。そしてそのような幸いがどこから来るのかを、心を落ち着けて考えたいものである。