「何を聞いているかに」マルコによる福音書4章21~35節

「面白い」という言葉がある。「面(めん)」が「白」いとはどういうことか。語源を調べると、このように説明されている。「面白い(面白し)」の「面」は目の前を意味し、「白い」は明るくてはっきりしていることを意味した。そこから、目の前が明るくなった状態をさすようになり、目の前にある景色の美しさを表すようになった。さらに転じて、「楽しい」や「心地よい」などの意味を持つようになり、明るい感情を表す言葉として広義に使われるようになった。

その他、「面白い」の語源には、昔、火を囲んで話をしていたところ、面白い話になると皆が一斉に顔を上げ、火に照らされた顔は白く浮かび上がったところからといった説もある。しかし、この説は「面」と「白い」から作られた、後世の俗説である(語源由来辞典)。

マルコによる福音書4章には、大きい、あるいは小さな譬え話が、散りばめられている。最後のパラグラフ「突風を静める」と題されている話、主イエス一団が小舟で湖を渡ろうとしたところ、突然、嵐に見舞われ、弟子たちは右往左往するが、頼りの主イエスは、ぐっすり寝ている、これもまた当時の教会の状況を示唆し、世の嵐に翻弄される様子、を映し出している「たとえ話」のように受け取ることができるかもしれない。33節に「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえでみ言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかった」と著者はコメントしている。「聞く力に応じて」、とあるが、いわゆる「読解力」とか「理解力」等の「能力に応じて」という学力的な意味あいというよりは、聞こうとする気持ち、聞きたいと思う心を、重く受け止めたということだろう。

「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」(井上ひさし)、という言葉は、そのまま主イエスの語ったたとえ話に当てはめることができるだろう。世の中では「やさしいことをむずかしく、むずかしいことをあさく、あさいことをつまらなく、つまらないことをいいかげんに」語るものだ。主イエスは決してそんなことをなさらなかった。まったく「面白い」という言葉の語源のように、集った人々が、一斉に顔を上げて主イエスを見つめ、その口から出るみ言葉に耳を傾ける。そしてそのみ言葉によって、一人ひとりの目の前が明るくされるのである。だからこそ、マルコが4章で並べて見せたように、こんなにも多くのたとえ話が、人々の心に留まることになったのだろう。今も私たちは、これらのたとえ話によって、主イエスの生の声にふれるのである。

今日の聖書個所の冒頭部分、21節もまた短いたとえ話のひとつであるが、主イエスの語る話がどのようなものであるかを、象徴的に示しているといえるだろう。「ともし火と秤の譬」と題されている。「ともし火を持って来る」と語られるが、原文は「ともし火が来ると」、で「持って」という単語は使われてない。今と違って、夜になれば漆黒の闇である。人々の集う場所に灯りが運ばれて来る。その時の様子を想像してほしい。そんなに煌々たる輝く光ではなく、ひとつの小さな灯りである。闇の中を光自体が向こうからやって来るように見えたことだろう。主イエスのたとえは、ごく身近な、民衆の生活の只中から生まれ、生活そのものの一コマを語るものである。誰もが普段の生活で味わっている、何気ない、当り前に見える出来事や事柄が、まるでともし火のように目の前にやって来て光を点し、目を明るくしてくれるのである。「面白い」。

ところが、折角、もたらされたその灯を、枡で覆ったり(燭台の火を消す時にそのようにする、灯心をくすぶらせないために、また燃えかすの匂いを防ぐために)、あるいは寝台の下に置く人も居る。何だ、ありきたりの話か、日常の些細な物事か、つまらない。おそらく、「損か得か」または「強いか弱いか」、また「大きいか小さいか」そして「正しいか間違っているか」という二分法でしか物事を考えられない人は、おそらく、折角のともし火も、こんな小さなともし火は、何のためにある、あるいは何の役にも立たない、と言って蓋をし、邪魔だとばかり横に取り除けてしまうのである。しかし、日常、あるいは生活というものは、「損得、大小、強弱、正邪」だけで成り立ってはいない、どっちつかずのあいまいな、灰色な世界なのである。だからこそ主イエスは「聞く耳のある者は、聞きなさい」と言われるのである。

これに続けて、主イエスは弟子たちに語られている。「何を聞いているかに注意しなさい」。「汝ら聴くことに心せよ」と文語訳は記している。かつてこの国の高名な演出家は、演技し台詞を語る俳優に、しばしばこう問いかけたという。「君は今、どう聞いたのか!」。芝居はひとりで演じる訳ではない。共に芝居をする役者との言葉のやり取り、掛け合い、駆け引きで成り立つ。すると自分が台詞をどう上手く語るかよりも、相手の語る言葉をどう聞いたか、で芝居の生き死にが左右されるであろう。ひとり芝居であったとしても、それは全くの独り言ではない、台本の言葉をまず聞いて、その聞いたところに従って、語るのである。だから「自分が量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」。ここで用いられている用語の「秤」は、重さを計る「天秤」ではなくて、「物差し」、「メジャー」を指すようである。「聞くこと」は、自分の「物差し」つまり判断や価値観、人生観、何が大切なのか、という感覚と繋がっている。

そもそも主のたとえ話は、何を語るものなのか。日常の出来事、普段の生活、当り前の人生の一コマが語られている。しかしそれでお終いなのではない。26節、また30節以下で語られる「種のたとえ」にそれが明確に語られている。「神の国は次のようなものである」。主イエスのたとえ話は、実に「神の国」を伝えるものなのである。「神の国」、学者たちはこぞって「神の支配」という意味だと説明する。神の国は、国土や領土とかいう地理的場所を表す概念ではなく、「神の働き」を意味する動的な用語なのである。神が御手を伸ばされ、出来事を起こされる。それはどこなのか。遥か天のかなた、深遠なる宇宙の果てにではない。では、この世を去っていつか皆、誰もが行くと言われる天の世界、魂の世界にか。そうではない。今、ここに、私たちが生かされているこの地上に、今、生きているこの場所に、日常に、神は手を伸ばされ、出来事を起こされる。どこに、あなたはその神の支配を見るのか、いや正確には、どこに神の言葉を聞くのか、どのようなみ言葉を聞くのか、ということである。「何を聞いているか、心せよ!」

ミャンマーでは少数民族カチンが多い地域で、兵士によるキリスト教会への放火や聖職者の殺害が頻発している(9割がキリスト者)。これはカチン人の武装勢力を孤立させるための、軍による意識的な殺害・破壊である。しかし、この戦術はミャンマー軍に対する憎悪を募らせ、対立の悪循環を呼ぶものでもある。教会を破壊し、聖書を燃やし、牧師を殺害する。果てはその指を切り落とし、結婚指輪を奪う。2月のクーデタ以降、混迷を深めるミャンマーでは、反体制派への協力を防ぐため、軍が無関係の市民に恐怖を植え付ける戦術をエスカレートさせている。その戦術が北西部でエスカレートすることは、ミャンマー軍がKIA(カチン人の自治を求めるカチン独立軍)と地元キリスト教徒の結びつきを弱め、ひいては民主化勢力の勢いを削ぐためのものといえるだろう。それは裏を返せば、ミャンマー軍がそれだけ民主化勢力や少数民族に脅威を感じていることの現れでもある(六辻彰二、国際政治学者)。

2021年2月1日に起きたミャンマー国軍のクーデターから1年が経つ。人権団体によると、軍の銃撃や拷問による死者数は1月28日時点で1499人となったという。ミャンマー国民は国軍による弾圧に抵抗し、民主化を求めて活動を続けている。若者を中心とした市民が戦いの場としているのはSNS(交流サイト)である。このように書き込みがなされている。

「17歳にはつらい状況です。働けないのでお金も稼げません。携帯電話にはお金がかかります。国軍は私たちを学校へ通わせようとしますが、今の教育環境はとても悪いです。教員ではなく軍の支持者が教師として授業を進め、何も教わることができません。私たちは、自分たちの未来を犠牲にして戦っています」。「今は絶望の時です。収入もなく、仕事のチャンスもない。もし軍部のために働いているのなら、軍の支配に従わなければならず、恐怖を感じながら働かなければなりません。軍とのつながりがある人だけが、快適な未来を手にすることができます。しかし、違法な軍事政権のために働く人々を誰もが見下し、憎んでいるのです」。これらの若者たちの声は、からし種の一粒かもしれない。「土に蒔く時には、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」。からし種のひとつぶに、神の御手は伸びるのである。