「口実であれ、真実であれ」フィリピの信徒への手紙1章12~30節

スポーツやゲームの対戦で、先攻・後攻の順番を決めるための方法に「コイントス」がある。対戦者同士が「表・裏」を口にし、コインを投げてその結果で決める、というやり方。非常に単純で分かりやすく、公平に見える。しかし本当にそうか。

先ごろこんなニュースが伝えられた。「表か裏か―。コインで決める時、当てたいなら投げる前に上を向いている面を選ぶ方がいいそうだ。50.8%の確率で同じ面に。違う面よりわずかに高かった。35万回以上も根気強く(実際に投げて)試したという。頭が下がる。オランダの学者らの研究がイグ・ノーベル賞の一つに輝いた。米科学誌が33年前に創設した賞。毎年1万件もの応募から10件選ぶ。選考基準は『笑えて考えさせられる』。本家ノーベル賞より受賞者の予想がつかない」(9月15日付「天風録」)。

このノーベル賞のパロディ版とも言える「イグ・ノーベル賞」に、この国の研究者たちの研究が、18年間連続で受賞しているのである。因みに今年、受賞したのは、某医科大学チームの「哺乳類がおしりから呼吸できる仕組み」の研究であるという。こんな下世話な研究をして一体何の役に立つのか、という声が聞こえてきそうだが、ブタなどにお尻から酸素を多く含む液体を入れると血中酸素が増えることから、将来的に呼吸に苦しむ患者の治療に役立てようとの試験が進められている、そうである。

「表か裏か」、「役に立つか、立たないか」、人間はすぐに二分法で考えて、判断しようとする傾向がある。分かりやすく、すっきりと明快に思えるからである。皆さんの思考はどうか、「あれか、これか」、あるいは「あれでもない、これでもない」、それとも「あれでもよい、これでもよい」か。イグ・ノーベル賞の研究成果は、私たちの硬直した発想を、突き崩し、別の地平を望み見させる遥かな視点を与えようとするものかもしれない。そして「ユーモア」が欠かせない研究に、この国が深く食い込んでいることに、非情な興味を感じる。実はこの国の人々は、真面目さや勤勉さだけでなく、ユーモアのセンスも多分に持ち合わせているのではないか。

現在「不寛容、憎悪、意見対立による分裂した社会」が、世界中至る所に広がっているように見える。キリスト教会もまた、そうした現実に真っ直ぐに向き合わねばならないだろう。今日は、「世界聖餐日」の礼拝を世界の教会の人々と共に守る。「世界聖餐日は、1946年に、WCCの前身である世界基督教連合会の呼びかけによって始められました。第二次世界大戦の深い傷跡の後、世界中の教会が聖餐をとおしてキリストにある交わりを確かめ、全教会の一致を求めて制定されました」(日本基督教協議会)。20世紀の2度の世界大戦、そこで用いられた大量殺りく兵器の無差別攻撃によって、子どもや女、お年寄り等、多くの無辜の生命が奪われるという経験をした。その悲劇に対して、しかも2度に渡る世界大戦に対して、教会は全く無力であった。その根本が、教会がさまざまな伝統・教派に拘泥し、分裂しているからであるとの悔い改めが語られ、再びひとりの主の枝に連なる教会として、手をつなぎ合おうという祈りが交わされたのである。ではどこから始めるか、共なる聖餐から。なぜなら教会は聖餐の議論によって分裂して来た歴史を持つからである。もう一度、すべての教会が、同じ主の食卓に集えたら、ということで、出発した運動である。

今日はフィリピの信徒への手紙からお話をする。晩年のパウロの手紙である。そして今、獄中にある。年老いて、自由に自分で身の回りのことはじめ、さまざまなことが出来なくなった老伝道者の心と思いが、まっすぐ伝わって来るような言葉が記されている。12節「わたしの身に起こったことが」、直接的には投獄されたことを意味しているが、そればかりでなく、長年の病気の身であり、さらに年老いて、かつての元気活発な身体ではなくなって病み衰えていることも、重ね合わせられている。不自由さと行き詰まりが、2重3重に彼を取り巻いているのである。そしてその不自由さが、彼をして2つの間に板挟み状態をもたらしているのである。15節「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます」。実の不自由さは、彼を「悪意と善意の間」、あるいは「口実と真実の間」に彼を立たせるのである。

さらに年老いて身体の不自由さは、こころや気力にも影響を与えるのである。人間の身体と心はひとつであるから。21節「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません」。「生と死の間」、生きたい、まだ働きたいという思いと、弱きになって、そのまま召されて主のみもとに安らぎたい 、「この二つのことの間で、板挟みの状態です」と彼は呻くようにつぶやくのである。「進退ここに極まれり」の状態、年齢を重ねることは、こういうものである。皆さんもお分かりだろう。

ところが彼はこう続ける12節「それが、かえって福音の前進に役立った」。誰も身体を拘束されたり、体が不自由になったりはしたくない。不自由は大きなマイナスである。今まで当たり前のようにできたことが、できなくなるとは、くやしく悲しく、まことに情けないことである。自分はもはや前に進むことが出来なくなった。先頭に立って歩むことが出来なくなった。しかしそれが「かえって福音の前進に役立った」とパウロは言うのである。自分はもう前に進むことはできない、しかし自分の無力によって、かえって福音が前に押し進んだ、というのである。パウロによれば、これこそが信仰者が目の当たりにする現実だというのである。弱くなりもはや自分の前進はない、しかし自分の前進ではなく、主イエスによって、神のみわざが押し進められていくのを見る、これこそ信仰者だけが見ることができるさいわいと言えるであろう。

よくキリスト教の葬儀は「伝道」だという。信仰を得て人生の道を歩み、この世の生涯を終えた人は、もはや語ることはない。ましてやこの地上で前に進むことはできない。しかしその人の一生を通して、人生の終わりに神自らが語るのである。だからそこに居合わせた人は大きな神の慰めを与えられるし、それによって信仰を与えられる人もいる。

パウロのいう「福音の前進」とは何か。「自分が不自由になったために、多くの者が、確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、み言葉を語るようになった」ことである。「確信を得」と訳される言葉は、「心が大きくなる」という意味で、危機的な状況の時に火事場の馬鹿力が発揮されるようなもので、パウロの苦しみが皆の心に火をつけたということであろう。面白いのが「パウロの不自由さ」によって「皆の心が広々した所に、連れ出された」というくだりである。どうも人間は、「表と裏」「善と悪」「正と邪」「敵と味方」二分法で、すべて狭い所に押し込めてしまうのである。しかし神は、広々した所に私たちを連れ出すのである。あの出エジプトの出来事のように。

しかし「多くの人々が、み言葉を語るようになった」とはいえ、パウロはその現実、実際を良く見ている。15~16節「捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、 17他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」。ねたみや競争心、自分の利益によって宣教する者がある一方、愛の動機から、善意の心で宣教する者がある。伝道の現場でも、さまざまな人間の思いが交錯することをパウロは知っている。私たちは「動機」を大切に考える。どんな心で、気持ちで行動したのか。「動機」の純粋さを良しとする所がある。無私の心、無償の心を求めるのである。そして偽善を鋭く批判する。そう言う人に限って得てして口先だけで何もやらないのだが。しかし人間の心や思いが、ただ一つだけで成り立っているというのは、本当ではない。純粋も不純も、善意も悪意も、自分の利得も利他も、さまざまな思いがごちゃ混ぜになって、動いているのではないか。神はそれをよくご存じである。だから神は人間のねたみや争い、偽善や罪をも、みわざのために用いられる。それが主イエスの十字架の苦しみの救いに現わされているのである。

人間の罪や身勝手さの中に、そして善意や真心の中に十字架が立っていることをパウロは知っている。だからこそ彼は宣言するように言う。18節「引用」。おそらく私たちがひとつになることが出来るところは、皆一人残らずが純粋に、善意に満ちて、罪なく生きることではなくて、「とにかくキリストが告げ知らされているのだから」という一点であろう。

お年寄りから沖縄戦の聞き取りをしている人がこう言う話を紹介している。「戦争中、姉の嫁ぎ先の年老いたおばあちゃんをずっと背負って、からくも爆弾飛び交う南部戦線を生き抜いた男性。あの戦場です。とにかく大変な中、おばあちゃんの命を救った。感謝されたと思ったら、そのおばあちゃんが収容所で一言『あんたは私のおかげで助かったね』。なんちゅうババアだ。でも、こういうおばあちゃんいますよね。男性を気の毒に思いながらも笑ってしまいました。と、その体験談について父に話すと『いや、そのおばあちゃんが当たっている。自分だけの命だったら諦めていたかも』。背負う者が背負われて、重荷を担いでいる人が、重荷に担がれて、神のなさるみわざである。正しさが人と人との絆とはならない。神のみわざだけを見、み言葉だけに聞くときに、私たちの心は一つとなるであろう。