「愛されている子供として」エフェソの信徒への手紙5章1~5節

とある雑誌に、「難しい漢字の読み方クイズ」が載っていた。簡単に読めそうで、読めない言葉が随分ある。その中のひとつ、「左見右見」という四字熟語がある。漢字自体は至って簡単だが、さてこれは何と読むのか。「左を見て、右を見る」というのだから「きょろきょろ」あるいは「きょときょと」とでも読むのかと思ったら、本当の読み方は「とみこうみ」なのだという。「とみかくみ」が音便化したもので、漢字の「左」「右」は単なる当て字らしい。「あっちを見たり、こっちを見たり、様子をうかがうこと」を意味する。細心の気配りとも解釈できるが、むしろ何も決められない意志の弱さをも連想させる。どうも「左右」がついている言葉は、あまりいい意味で用いられないものが多い。似たような言葉に「右往左往」や「右顧左眄(うこさべん)」があるか。前者は慌てふためくばかりで、そわそわ落ち着かない様子。後者は他人の意見を気にして迷った揚げ句、ちゃんと結論を出さない状況を表す。どちらもあいまいで優柔不断、いさぎよい態度とは言い難いだろう。

人生は日々決断の連続といわれる。大事な局面を迎えた途端、人は慎重になって左右のバランスを取ろうとする。様子見は生来の防衛本能かもしれない。ただ「左見右見」の優柔不断が、時に失敗を招くことがある。要は生きる時に、いろいろ見るべきもの、信頼すべきものは多々あるだろうが、すべてを受け止めることは出来ない。真実に、私たちは何に目を向けるべきか、何を見たら、本当に頼りになるのか、生きることができるのか、ということである。

今日は、敬老の日に近い聖日であるので、特に高齢の方々への祝福を祈る礼拝を守りたい。聖書では、「長寿」を神からの祝福の具体的あらわれとして受け止め、高齢者への敬意を繰り返し語っている。レビ記19章32節には「あなたは白髪の人の前では、起立しなければならない。また老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である」と誡められている。「高齢者を敬う」ことを、「神を恐れること」と同等に置いている。つまり、敬老は「神信仰」の範疇なのである。ここで「わたしは主(ヤーウェ)である」という言葉に留意する必要がある。神が自らの名前を口に出して名乗る時には、そこで語られる事柄が、格別重要とされる時なのである。どうしてそれ程まで、「敬老」が強調されるのだろうか。

世間一般では、高齢者への敬意の理由を、「長年の社会貢献」、あるいは「人生経験の豊かさ」また「人生行路から生まれるスキルや人徳、知恵」に置くことが多い。しかしこれだけだとひとり一人の人間の「業績」やら「能力」に、敬意が左右されることになる。だから「いずれ誰もが行く道だから」という見地から、さらに「弱さの尊重」等、福祉的な意味合いも語られる。子どもや幼児、そして高齢者は、心身の健康面や経済力において、弱い立場にあるとされる。「弱肉強食の世の中だ」だとうそぶいて見ても、強い人だけが生きられるような社会は、すべての人にとって地獄であり、弱い人々が安心して生きられるところは、丈夫な人にとっても、生きやすい場所なのである。

但し、聖書の人間論では、単にひとり一人の人間の資質や業績、あるいは性格や気質によって、あるいは人間を取りまく世界や社会の構造によって、評価をすることはない。常に神との関わりの中で、人間の問題を考えるのである。さて聖書では、どのような意味で、「敬老」を語っているのか。今日の聖書個所は、「日ごとの糧」の聖書日課からなのだが、努めて「敬老」の意味が語られているとして、読むことの出来るみ言葉なのである。

1節に、「神に倣う者になれ」、という呼びかけが置かれている。そしてこれに呼応するように。3節「聖なるものにふさわしく」、さらに5節「ふさわしいものではない」と繰り返されている。「倣う」と「ふさわしい」、この2つの用語が呼応し、鍵語となって、論が展開されていると言えるだろう。但し、教会の皆さんに、「あなたは、神さまに倣って生きていますか」とか、「聖なるものにふさわしいですか」とか言われて、どう答えが返って来るだろうか。

どうも言葉というものは、本来の意味ではなく、勝手な思い込みで理解している場合もある。少しばかり「倣う」とか「ふさわしい」という言葉の、本来の意味を知っておこう。まず「倣う」、漢字では、「学習する」という意味の「習う」と、「真似をする」という意味の「倣う」は別の文字をあてるが、日本語の「ならう」はもともと一つの語源で同じ事柄を表している。「知識や技術を誰かから教わる」、そして「繰り返し練習して身につける」ことが「習う」である。他方「倣う」の主な意味合いは、「あることを手本として、それと同様のことを行う」。さらにまた、「慣れ親しむ」という意味合いもある。「学習は真似をすることで始まる」のだから両者は一体である、ここで「ならう」には「繰り返す(反復)」「慣れ親しむ(反芻)」という意味合いが込められていることに、注目したい。

次に「ふさわしい」だが、動詞「ふさう(相応う)」が形容詞化した語である。「ふさう」は、平安時代に「ふれそふ(触添)」から変じた語で、「よく釣り合う」「似合う」という意味になったとされている。「ならう」が「繰り返す、慣れ親しむ」という意味があり、「ふさわしい」が「ふれそう、近くに居て共に歩む」という共通の意味合いを持っていることが分かる。

「神に倣う」こと、「ふさわしく」歩むこと、は私たちに手の届かない、到達不可能な高邁な目標を指し示しているのではない。素より私たちは、どれ程頑張ってみても、神ならぬ身ゆえに、誰も神のようになることは出来ないし、聖なる者といっても、罪から全く無縁で、この世離れした仙人や聖人になり得るはずがない。「神に倣う」ことも、「聖なる者にふさわしく」生きることも、自分たちの力や努力では、到底不可能なのである。では聖書は私たちに、無理難題を突き付けているのかと言えばそうではない。ただイエス・キリストという一点において、「倣う」あるいは「ふさわしい」生き方が生まれて来るのである。それは神の独り子、主イエスが、私たちと同じ人間となってくださって、この地上の世界を生きて下ったからである。私たちと直に、慣れ親しみ、触れ合い、共に歩んでくださったのからである。何となれば「慣れ親しみ、触れ合い、共に歩む」ということが、「倣う」こと、「ふさわしい」ことの本質だからである。

旧約聖書、創世記5章には、「アダムの系図」として、最初の人々の連綿たる生涯が短く、書き連ねられている。ここで目を引くのは、千年に手が届くかという程の、長寿を全うした人々の歩みである。「長寿は神の祝福」という観念が、ここには強く表明されているのである。その中で一人だけ他と別の記述をされている人物がいる。エノクである。24節「エノクは神と共に歩み、神が彼を取られたのでいなくなった」と語られる。ある学者は、「今まで書かれた伝記の中で、最も美しく、最も短い人間の一生」と評する。この短い文章の中で「歩む」という言葉は、再帰用法によって記されている。あえて訳せば「行く時も、帰る時も、共に」。

数年前に「手紙コンクール」で最年少受賞者となった8歳のお子さんの文章、「かみさまへ まいごになったら、かえり道を教えてください。わたしだけじゃなく、犬のクーちゃんや、まいごのみんな、おじいちゃんおばあちゃんにも、道を教えてあげてください」。古代ヘブライ人は、この幼な子のような心の持ち主だったのかもしれない。人生には、行く道、帰る道がある。喜びの時、嘆きの時、順調な時、逆境の時、希望の時、失望の時、それぞれ良い時、悪い時、どちらの道をたどる時にも、迷子になって、路頭に迷わないように、見捨てられてしまわないように、あなたが導き、共にいてください。こうした先行き分からない人生の道への祈りが、裏打ちされて、「エノクは行く時も、帰る時も、神と共に歩み」という言葉に結実されている。

今年はこの教会から、お二人の方々が、88歳、「米寿」を迎えられる。心からの祝福を祈りたい。私たちは、「敬老」という時に、神から与えられた尊い生命を、担って生きられたことへの尊敬と共に、ひとり一人の人生の旅路に、いつも共に歩んで下った神の恵みの素晴らしさを見るのである。人生においてみるべきもの、知るべきものは多いが、右左をきょろきょろ見て、よそ見して歩むのではなく、拙いと思える人生にも、限りない恩を注がれる「神の愛」を見るのである。「神と共に歩み」、それこそが「神に倣う」、「聖なる者にふさわしい」生き方である。