「生き延びるために」使徒言行録27章33~44節

間もなく子どもたちは夏休みを迎える。やはり皆、心が解放される気持ちだろうが、それと裏腹に、「夏休みは短くていい、ない方がいい」と語る親御さんもいる。給食がないので、子どもの食べる昼ごはんの心配をしなければならない、「手間だ」、というだけでなく「お金がかかる」、飽食の時代にも、飢餓は日常のすぐ隣に存在する。

私たちは、食べることなしに生きることはできない。しかし「食べるとは何か?」と問われても、なかなかうまく答えることは難しい。『ナチスのキッチン』などの著作で話題を集める藤原辰史氏(京都大学准教授)が、8人の中高生と語り合って生み出された。『食べるとはどういうことか 世界の見方が変わる三つの質問』(農山漁村文化協会)と題された書物がある。

著者は、「食」の歴史研究と「ナチス・ドイツ」の歴史研究を掛けあわせた、ユニークな見地からの歴史研究をされている。考えさせられるのは、ナチス・ドイツが残虐な侵略行為や虐殺行為を行った一方で、国民の「健康」に対して過剰なまでに気を配る社会であったという事実である。「健康」と「清潔」こそが、ナチス・ドイツのキーワードであり、それはある意味で現代の「健康」ブームや「清潔」ブームを先取りするものでもあった、とも言える。その意味では、現代社会もまた(潜在的に)「ナチス的」であると思わされ、不気味な気持ちになるのである。

本の中で著者は問う「今までに食べた中で一番おいしかったものは?」。まず氏自身がこの問いに答えている「私は、今、41歳です。島根県の農家で生まれました。おじいちゃんが、パッカー(三輪トラック)で畑や田んぼによく連れていってくれました。夏になると、じいちゃんが畑のトウモロコシをボキッともいで、コンロで炙ってくれました。パッカーって何をのせると思う? 牛のうんちです。そういうにおいをわあーっとかぎながら、トウモロコシをばりばり食べたというのが、印象に残っている、いい思い出です。さて、皆さんはどうですか?」、これに応えるように、中高生たちはさまざまな食の体験を語って行く。「自分で種を採って育てているトマト」、「佐渡島のアゴだしの味噌汁」、「家庭菜園のキュウリに味噌をつけて食べる」、「家族と食べるお好み焼き」などなど。「幼稚園児でも答えられるような単純な問いがどうしておもしろいかというと、『どこどこの高級店のふかひれ』だとか、そういうふうに答える人が少ないんです。だいたいご家族とか友人とか、人との関係性で話をする人が多い。僕は、これはすごくおもしろい、不思議だなと思っています」。さらに、この質問をすると、その食べ物が持つ多様なつながりに触れる人が多いそうだ。「先ほども単に味噌汁じゃなくて、佐渡という地域のアゴだしの味噌汁という話が出てきました。その食べ物にあるいろいろなつながりが、おいしさを増しているということなんですね。人は食べるとき、人間関係やその食べ物をめぐるいろいろなネットワーク、風景、思い出も一緒においしく食べている」。

今日の聖書個所は、使徒言行録27章である。ローマに護送されるパウロが乗せられた船が、激しい嵐で難波し、大破、遭難するという逸話である。この個所はスリリングで非常に見事な筆致で描かれており、著者ルカの文章力の巧みさが伺えるところでもある。彼は当時の船乗りの「航海日誌」的な文学手法を真似て筆を進めていく。プロの船乗りよろしく、航海の実際の有様を、とりわけ自然の猛威に翻弄される船に乗り合わせた人々の慌てぶり、不安や狼狽の様子をも事細かに伝えてくれる。それに加えて、接岸用の曳舟、4本の錨や海錨(シーアンカー)の投錨等(これは海流の中に投げ込んで船を安定させる凧のようなものである)、船の設備や航海上の技術等の事柄も詳細に記して行く。著者のルカもパウロと一緒に旅をしていなければ、伝えられないような密な情報である。

地中海というと、真青な海と空、対称的な白い入り江、海岸に立ち並ぶ真っ白い家並みという風光明媚の「リゾート」風景が思い浮かばれるが、それは海という自然の持つ一面に過ぎない。秋から冬にかけての地中海は、嵐に荒れ狂い、ベテランの船乗りでさえも恐れをなして決して船出はしない程だと言われる。しかしパウロが載せられた船の船長は、豪胆なのか無頓着なのか軽薄なのか分からないが、パウロ初め276人もの大勢の乗客を乗せて(結構大きな船である)、無謀にも出航するのである。

13節にこうある「その時、おだやかな南風が吹いてきたので、人々はこれ幸いと思い、錨を上げ、クレタ島の海岸にそって航行した」。海岸沿いの航行は、慎重さの表れであるが、いつ座礁するかという危険と裏腹の航海である。「これ幸いと錨を上げ」、と途端にユーラクロン、暴風が襲うのである。人間の思慮の底の浅さ、愚かさと自然の脅威はどこかでつながっている。嵐に翻弄されて、乗客は、絶体絶命の窮地に追い込まれる。さしもの船員たちも、接岸用の曳舟に乗って、自分たちだけ逃れようとする始末である。人々は何とか命だけは助かろうとして、積み荷を次から次に海中に投棄し、船を軽くし、沈没を防ごうとする。船の沈没を防ぐために、積み荷を投げ捨てる、それによる損害は、荷主と船主が折半して負担する、という制度は、ここギリシャから始まった商慣習であり、これが「損害保険」の始まりとされる。保険会社に「~海上」の名称が多いのも、ここから来ている。

ここでルカが伝えたいのは、こうした生命が左右されるような危機的状況で、何が最も大切で、何が生と死を分けるのか、ということである。33節「夜が明けようとする頃」、生死を分けるその時が訪れる。物事には、必ずふさわしい時がある。その時をしっかりと見定め、捉える必要がある。パウロは皆にこう勧める。「パウロは皆に食事をするよう勧めて言った、『今日で十四日、あなた方は待ちつづけて、空腹で過ごし、なお何も食べていません』」。パウロは言う「飯を食え」。「腹が減って軍ができぬ」というのである。確かに武士は、空腹で大事に臨むことはしなかったという。たとえ死を前にして、それが不可避であったとしても、茶漬けの一杯を腹に収めてから、死地に赴いたのである。パウロも自ら皆の手本のように、パンを裂いて食べ始めた。

36節に注目してほしい「そこで、一同も元気づいて食事をした」。ルカは非常に上手く伝えてくれている。人々は自分たちの抱える危機的状況に恐れおののき、食べることすらも忘れていた。食べたいという気持ちも、生きるために食べなければという切迫感も失っていた。本当の危機とはそういうものである。食事という「生存のための必要条件」すら忘れてしまう、ここに一番の危機がある。しかしルカは「食事をして元気を取り戻した」というのではない。よく読んで欲しい。「パンを裂いてむしゃむしゃ食べる」そのパウロの姿を見て、彼等は元気づいたのである。他人が美味しそうに食事をするのを見るのは、幸福感を与える、という。それは教会の原風景でもあろう。ここ数カ月の間それができなくなっているのが、一番の残念である。

但し、人々はただただパウロの食事する姿を見て、元気づいた訳ではない。「パウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた」。これは教会での皆が食事を共にするときの、典型的な作法であり、これが礼拝の中心でもあった。パウロが、絶体絶命の危機の中で、食事をしたのは、栄養補給「腹が減っては戦ができぬ」という意味は確かにあるのだが、それ以上に、食べるとは、神のみ前に礼拝することでもあったのだ。人々は、パウロの振る舞いと共に、その背後におられる神の働きを見たのである。その危機や苦難の中で、神は確かに居られ、働いてくださる。だから「元気づいた」のである。食事をするとは、実は、神のみ前に口を開くことであり(口を開くのは無防備な姿をさらすことでもある)、それは神に心を開くことに通じる。実に神の救いはここから来るのである。

こういう新聞記事を読んだ。「ハマダ・シャクーラさん(32)が交流サイト(SNS)のインスタグラムで作る『料理』は独特だ。36万人を超すフォロワーの一人として更新を心待ちにしている。元々、飲食店などの情報発信をなりわいにしていたという。先般、作る側に回った理由を海外メディアで語っていた。『子どもたちに幸せを感じてほしい。ほんのわずかな時間だとしても』。画面の向こう、彼が居るのはパレスチナ自治区ガザである。イスラエルとイスラム組織ハマスの戦闘で家と職を失い『最後の逃げ場』と呼ばれる最南部のラファまで逃れた。北部と違い何時間も列に並べばどうにか救援物資が手に入った。缶詰の豆や肉。トマト。パスタ。量も種類も栄養も足りないなりに、知恵と技で『人間らしい食事』を楽しめないか。仲間と調理場を調え、即席のピザやピラフを振る舞い始めた。キャンプの子らがクレープを頬張る動画はこちらまでうれしくなる。一口ごとに目を輝かせて『ザーキ(おいしい)!』(6月4日付「滴一滴」)。

「平和」とは、子どもたちが顔を目を輝かせて、「ザーキ」と言えることだろう。貧困や災害の中で、戦争の中で、容易くそれは失われる。ガザばかりでなく、この国で、子どもたちの楽しみの夏休みでも、それが失われてしまう。何と言うことか、しかしその悲惨の中でも、「ザーキ」は生み出されるのである。私たちは、主イエスが荒れ野で五千人の人々を養われたことを知っている。「五つのパンと二匹の魚」で。さらにさかのぼって、出エジプトの後、イスラエルの民は、荒れ野で40年、神の与えられたパンで、旅を続けたのである。「あなた方は待ちつづけて、空腹で過ごし、なお何も食べていません」、そこに神はみ手を伸ばし、食卓を準備される。その食卓から目をそらさないように、そこに歩みたいと願う。