『死んだ男の残したものは』という題名の古い歌がある。作詞は谷川俊太郎、作曲は武満徹という、凄腕の人たちの手になる作品と言える。どんな歌か、題名で知れるように、恐ろしく暗い歌である。ベトナム戦争のさなか、泥沼のような1965年、「ベトナムの平和を願う市民の集会」のために作られ、歌手、友竹正則によって披露されたこの国発の反戦歌のひとつ、と評されている。
「1節、死んだ男の残したものは/ひとりの妻とひとりの子ども/他には何も残さなかった/墓石ひとつ残さなかった。4節、死んだ兵士の残したものは/こわれた銃とゆがんだ地球/他には何も残せなかった/平和ひとつ残せなかった」。
「他に何も残さなかった」と繰り返し歌われるフレーズが印象的であるが、この歌は「反戦歌」という位置づけを超えて、人間が一生を生きて、その生きた証に何を残せるか、という根源的な問いを投げかけてくるように思う。はた目から見れば色々論うことのできるような、大小どのような人生も、決してどれも楽には生きられないものだ。それでも自から望んで、自分で選び取った人生なら、まだしも仕方ないと己を慰撫することはできるだろう、自業自得だと言い聞かせることもできるだろう。しかし好むと好まざるとにかかわらず、否応なしに一方的に押し付けられる側面が人生にはある。そういう現実から生じて来る問いが、「生きる意味」というものではないのか。
「他に何も残さなかった」というような人生への評価、あるいは省察は、聖書と決して無縁ではないだろう。今日の聖書の箇所は「信仰者群像」とも呼び得るものだが、聖書に登場する有名人をすべてリストアップして、彼らの人生がどういう質のものであったかを語っているのである。そして彼らそれぞれの人生の歩みに対し、等しくたったの一行「約束されたものを手に入れませんでした」と記すのである。自分が望んだものを、生涯、手に入れることはなかった、そういう人生を歩んだ、というのである。もしこれを世俗の言葉に言い換えれば、「人生に失敗した、人生に敗れ去った」ということになるだろう。しかも「約束」という言葉に明らかなように、神を信じて、そこから与えられたヴィジョンとか確信とか、希望を求めて歩んだけれども、それを実際にはいただけなかった、ということなのである。敢えて言えば「だまされた」、ということにもなろう。
ただ聖書が普通でないのは、そうした失敗や挫折の人生を歩んだ人たちが、「遥かに望み見て(希望を持ち)、喜びの声をあげ」て生きた、と告げる所なのである。そんなことがあるか、といぶかしく思う人があるかもしれない。いや私自身そう思う。失敗して、だまされて喜ぶ人がどこにいるか。しかしそれにもかかわらず、聖書はそういう人生があるとはっきり断言しているのである。「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ」。もしこうした生き方が本当にあるなら、そういう人生を歩んで見たいとは思うだろうか。聖書の語る人生は、逆説に満ちている。普通なら喜ぶことなど到底出来ないところで、大きな喜びが生まれる、喜びを受け止めながら生きる、そういう人生があるのだ、と教えるのである。
金子みすゞ氏の詩に『木』と題された小品がある。「小鳥は/小枝のてっぺんに、子供は/木かげのブランコに、ちっちゃな葉っぱは/芽のなかに。… あの木は、あの木は、うれしかろ」。それがで何の木で、どのような姿かたちをしていて、どのくらいの大きさなのかは、書かれていないので、詳しくはわからない。ただ「あの木」は「うれしい」と語るのみである。なぜその木は「うれしい」のだろうか。
誰かの、何かの役に立っている、たとえそれが小さな役割でも、何ほどか他のもののためのお役に立っている、という意識は、確かに喜びを生み出してくれるだろう。しかし、「役に立つ」かどうかは、結果であってそのものの価値自体を計るものではないだろう。役に立たなければ、その存在は空しく、意味を持たないのか。一体、「役に立つ」かどうかは、誰によって決定されるのか。そもそも「役に立つ」とはどういう事態なのであろうか。
「役に立つ、立たない」ことよりも、この名もない木にとっての「うれしかろ」は、もっと別のところにあるのではないか。即ち、その場に動かず、動けず、ただそこに生えて、立っている自分のところに、それでも小鳥が訪れ、傍らに子どもが遊び、芽の中に若葉があること自体ではないのか。生きている限り、自分のところにやって来る、訪れて来る何ものかがある。それはいつも自分にとって都合の良い、望み通りの幸運ではないだろう。病気や厄介ごとや、もめ事など、いわば「招かれざる客」のような出来事かもしれない。それで自分もそれに巻き込まれて、右往左往することになろう。それでもそこから生まれる人生の「深み」のようなものがある。自分に何ができたから、何をしたから喜びが生まれた、のではなくて、「喜び」とは、生きる中で向こうからやって来るのではないか。意図せず、計画もせず、準備のない中に、それでも生かされている、それこそが喜びの源ではないか。
私たちはいつも、主イエスの生涯、彼の十字架への道に照らしてすべてを見るのである。主イエスもまた聖書の人々に連なり、「約束されたものを手に入れない」人生を歩まれた方である。しかし、そうだけれどもその人生、30才を少し超えるくらいの、今で言うなら薄幸の人生を、それでも「喜びの声を上げて」生きられた。そして地上の生涯の行き着くところは、十字架であった。その十字架への歩みを目の当たりにして、私たちは、まことの生き方、真実の生とは何かを思うのである。主イエスが十字架を負って歩んでいるのを見て、その後に遅れて、何とか従いたいと思うのである。何とか私の生き方もそれに触れていたいと望むのである。これは損得や名誉、人の評価を超えるものであろう。
イエスの歩まれた、十字架への人生、それを自分のこととして受け止めるところで、初めて「約束されたものを手に入れませんでしたが、喜びの声を上げながら」という生き方が見えてくるであろう。それは決して空しい人生ではない。後に何か残す必要など人生にはない。ただ一日一日に備えられた、本当の命の恵みを知ることが、それに目を開かれることが喜びの根底であろう。聖書の人々の、イエスご自身の、「喜び」を自分のものとして生きたいと祈るものである。