「神の御心ならば」マタイによる福音書27章32~56節

こういう文章を目にした。「人の心は不思議なものである。寝たきりの90代の女性に、研究者が枕元で質問した。『今、健康だと思いますか?』。答えは『元気だよ』。起き上がることもできず、状態がいいようには見えないのに。『こんなに健康なの、私くらいだよね』。老いとは、見た目では分からないものなのかもしれない。別のとき、100歳の男性に尋ねた。『今日は何月何日ですか?』。答えが出てこない。それでも毎日読んでいる新聞を指さし、『ここに書いてあるから、これを見れば何日かわかるんだ』。日にちが覚えられないくらい何でもない、と」(4月6日有明抄「老いのかたち」)。

ひとり一人の人間は、他の人の目から見えない、その人だけの感覚、思い、決意や納得「これでよい」がある。見た目と正反対の「こんなに健康なの、私くらいだよね」、こういう言葉はどこから生まれて来るのか。その人の魂から洩れて来る言葉のようにも思わされる。また「ここに書いてあるから、これを見れば分かる」という、生きるための手掛かりのようなものを、見つけ出していれば、自分の感覚がどうであれ、命として充分なのかもしれない。たとえわたしが理解できなくても、そこに目を向ければ、生きる指針や励まし、慰めを見出すことが出来る、というものや事柄を、皆さんは持っておられるか。

今日の聖日は「棕櫚の主日」、受難週の始まりである。それぞれの福音書は、皆、受難物語を記しているが、相互に共通する描き方であることから、早い時期にそれだけがまとめられ、文書化されていたのではないか、との推測がなされている。極めてドラマ性が高い筆致なので、実際、初代教会で、これを用いて「受難劇」(とは言えないまでも何人かの語り手による朗読劇)が催されていたのではないか、とまで考える学者もいる。今でも、クリスマスには、教会でページェント、「聖劇」が上演されることが多い。時代を反映して、(この教会も)子どもの数より大人の配役の方が多かったりする。それはそれで楽しいものだ。演じる自分が楽しいのである。キリシタンの時代も、この国の信者たちは、仲間内で「聖誕劇」を上演して、楽しんでいたと伝えられている。それが初代教会から受け継がれている伝統だとしたら、いささか想像するに楽しいではないか。

今日の個所は、主イエスが十字架に釘付けにされ、血を流し、息を引き取られるもっとも痛ましい場面である。マタイはその様子を記すのに、ほぼマルコを引き写し、若干を端折りながらも、ある場面を特に強調している趣がある。即ち、十字架上の主イエスの周りを取り巻く人々の様子、その「生の声」を再現しようと試みている。「棕櫚の主日」とは、主イエスがエルサレムの都に入城して来られたことを記念する聖日である。預言者の言葉の通り、小さく非力な子ロバに乗って、都の内に入られた。人々は「ホサナ、ホサナ」と喜び迎えたという、「ホサナ、どうかお救いください」、これはどんな人間も心の奥深くに宿している思い、いわば真実の叫びであるだろう。「救い」を求めない者などいるだろうか。普段はそれが内に秘められていたとしても、窮地に陥れば、ものの見事に噴き出るのである。ところがその「ホサナ」は、一週間も経たないうちに180度方向が変わる。「自分を救え、救ってみろ」。常に象徴的であるが、これもまた人間の心の、またそこから表出される言葉なのである。自分を救ってくれるものがどこにあるのか、それはお前ではないのか。自分の思い描く「救い」が裏切られる時、失望は暴力にすり替わり、その原因と目されるものに、攻撃の刃が向かう。「救ってください」と言っていた人々が、今は「自分を救ってみろ」と罵る、十字架の周りにいた人々が、主イエスに浴びせかけた言葉である。さらに同じような言葉が連ねられている、「自分は救えない」。このふたつの言葉、「自分を救え」、と「自分を救えない」、実にこのふたつの言葉の間に、人間の人生は置かれているのではないか。

若い時に、しばしば高校の生徒を連れて、介護施設にボランティアに行っていた。食事の際のお手伝いをすることが多かった。中には手づかみで食べている方もいた。「手づかみは問題ではないか」という顔をしていたのだろう、後で施設長さんが説明してくれた。「例え手づかみでも、自分の持っている力を何とか使って生活する。それがその人の生きる力を保つことになる。手づかみでもそれが自分を救うことになる」。確かにその通りだろうが、そうした自分の生きる力がいつまでも、永遠に保たれ、続くわけではない。いつか人は自分の能力、獲得してきたもの、作り上げてきたものを、ひとつ一つ手放して、行かなければいかないし、最後には、すべてを手放して旅立たねばならない。

十字架を取り巻き、見上げる人々が口にした罵りの言葉、「自分を救え」という言葉、さらに「自分を救えない」という言葉、これを口にした人々は、主イエスを罵り、嘲っていると思っているが、実は、自分自身の上にそのまま帰って来るブーメランのような言葉を口にしているのである。「言葉」は、良くも悪くも語ったその当人の所に、そのまま舞い戻ってくるようなところがある。「人を呪わば、穴二つ」、誰かに投げつけた言葉は、そのまま自らを裁くものとなるのではないか。

マタイの描く受難物語に、もうひとつマルコにないマタイだけの台詞が語られていることに注目したい。41節「祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。「わたしは神の子だ」と言っていたのだから』」。十字架に付けられ、なす術もなく血を流し、苦しむ主イエスに対して、民衆や強盗よりも、一層ひどい言葉を祭司長、律法学者は口にするのである。人々から「神の人」と呼ばれ、神の言葉を解き明かし、礼拝で罪のとりなし、ゆるしを祈るのが職務である、その彼らが、一番の暴言を語るのである、ここにマタイの辛辣な批判があるだろう。神に近いと思われる人々が、もっとも残忍で的はずれな、ひどい言葉を語るのである。

ところが、これがまたマタイ流とも言えるのだが、祭司、律法学者の語る言葉は非難や暴言であるとしても、信仰告白的な側面を強く持っている言辞なのである。彼らは知らず知らずの内に、主イエスの歩み、その生き方に、自分たちには到底為し得ない、持ちえないものがあることを、つい口に出しているのである。「神に頼っているが、神の御心ならば」、これは直訳すれば、「あなたはいつもいつも神に向かっている、神の御心に、その計画に自分を託している、それならば神に救ってもらえ」。この言葉は、さすが専門家と言えなくもない。イエスよ、あなたは今まで、いつもつも神に向かって生きて来た、神の御心に歩んできた。今、十字架の上で、みじめでもはや救いのない所にあっても、あなたは変わらずに神の方に向かおうとしている。それなら、神に救ってもらうがいい。なお質が悪いと言われれば、その通りであるのだが。

こんな話題はどうか。歌手の宇多田ヒカルさんが一昨年、交流サイト(SNS)に投稿した一文が話題になっているという。10年前に亡くなった母親(歌手の藤圭子さん)に対する現在の心の有り様を語っている。こう記している「死に正しいも正しくないも自然も不自然もない。何かをすると決めた人間がそれを実行するのを周りがいつまでも阻止するのはほぼ不可能。今知ってることをまだ知らなかった時を振り返って『ああしていれば』『なぜ気づかなかった』と自分を責めるのはまだ手放す準備ができていないから。人が何を感じてどんな思いでいたか、行動の動機やその正当さなんて、本人以外にはわからない。わかりたいと思うのも、わからなくて苦しむのも他者のエゴ。『理解できないと受け入れられない』は勘違いで、『受け入れる』は理解しきれない事象に対してすること。理解できないと理解すること。人が亡くなっても、その人との関係はそこで終わらない。自分との対話を続けていれば、故人との関係も変化し続ける(2023年8月22日)。

十字架を取り巻く人々、多くの群衆、祭司、律法学者、そしてすぐ隣で同じように十字架に付けられている二人もまた、主イエスの苦しみの本当の所をまったく分かっていない。福音書記者は、彼らの無知を非難し、断罪しようとしているのではないだろう。私もまたそのような者のひとりである。突然に母を失ったこの人も、「人が何を感じてどんな思いでいたか、行動の動機やその正当さなんて、本人以外にはわからない。わかりたいと思うのも、わからなくて苦しむのも他者のエゴ」と言い切る。あまりに真っすぐすぎるとも感じるが、しかしそれに続けて「『理解できないと受け入れられない』は勘違いで、『受け入れる』は理解しきれない事象に対してすること。理解できないと理解すること。人が亡くなっても、その人との関係はそこで終わらない」と言葉を継いでいる。分からないままに、でも大切な人のことを受け入れようとする、忘れずに、心に温め宿し続けて生きてゆく、その人との関係は、終わることはない。

今日の聖書個所の最後にこう記される、「そこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である」。遠くから見守る大勢の婦人たちが居たことを、マタイは伝えている。「見守る」とは「受け入れる」ことの言い換えである。侵入園児たちが、幼稚園の門をくぐる。その中に保護者は「入れない」、だから門の外からじっと見守る。子どもの姿が見えなくなっても立ち去ることはできない。からだは近くにはいられないけれど、心は、魂は、共にいるのである。そういう受け入れる人々が、大勢いて、遠くで見守っている。そこに見えない神のみ腕も伸ばされている。「自分との対話を続けていれば、故人との関係も変化し続ける」、そこに神は命を吹き込まれるのである。