祈祷会・聖書の学び ヤコブの手紙3章13~18節

最近、巷間で「D言葉」と呼ばれる言い方が取りざたされているという。 相手を否定したり、冷たく聞こえたりする言葉全般を指すのだそうだが、ビジネスシーンで、特にクレーム対応の際に問題をややこしくしてしまう言葉らしい。 即ち「だから、ですから、でも、だって、どうせ、できません」等の「D」から始まる言い方は、相手に不快感を与えるので、避けた方がいい、というのである。 それらの言葉は、上から目線で意見を押しつけられる印象、また 軽んじられている、自分の不備や不明を指摘されたように感じられ、不満が増大する、さらに意見を述べた後にそれらの言い方を聞くと、否定あるいは批判された印象を受けるのだという。

それではどうすればよいかというと、「D言葉」を「K言葉」に変換せよ、というのである。 K言葉とは、「困りましたね」「苦しいです」「怖いです」という言い方であり、理不尽な要求に対して、回答するのではなく、「私ではどうしようもない」とお手上げの状態を演出する言い方なのだという。 それで万事、上手く収まるかはどうかはともかく、対決姿勢は随分緩和される印象を受ける。 やはり人間は、ことばによって生き暮らしているから、言葉によって衝突するし、言葉によって仲直りもするのである。 戦争を始めるのも言葉により、講和するのも言葉によるのであるが、本当に求められるのは、戦争をもたらすような言葉を、とにかく他の言葉に変換するという技術であり力量なのであろう。 ひとたび戦争が始まれば、平和の言葉は吹き飛んでしまうように見える。 そこで政治家の手腕が真に試されるであろう。

新共同訳では、今日の聖書個所は「上からの知恵」という表題が付けられている。 13節「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか」という問いかけから段落が始められる。 この問いは、古くて新しい人間への問いであろう。 有名なのは、「ソクラテスこそ、アテナイ第一の知者」というデルフォイの神託を受けて、この稀有な哲学の徒が、知者を評判の高い人々と問答する場面である。 哲学者は自分のことを「知者」等とは毛頭考えていない。 そこで神意を確かめるべく問答するのだが、それらの人々は、知恵があると思い込んでいるだけで、「真善美」については何も分かっていないことが判明する。 そこでソクラテスは、「あなたは自分が何か知っていると思っているが、実は何も分かっていないのだ、と教えたところ、却って恨まれた」と語っている(『ソクラテスの弁明』)。 ここから「無知の知」という至高の知恵のあり方が導き出されることとなる。

この「上からの知恵」という表題も、このようなニュアンスをもって記されているように思われる。 この前段落では、6節「舌は火です。舌は『不義の世界』です。 わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」という具合に、人間の用いる「ことば」の問題について、言及されている。 実に「舌」即ち、人間の口にする言葉は、「火」に喩えられる、という。 最近、国内外で、大規模な森林火災が報じられる。 最初は、わずかな小さな火種なのだが、生憎、空気が異常に乾燥している時候ともなると、大きく燃え上がり、そこら一帯を火が嘗め尽くすように広がるのである。 鎮火するまで数カ月の期間を要し、失われる家財、自然、野生動物の生命は計り知れない。 アメリカ・ロサンゼルスの山火事は1万棟以上が焼失する甚大な被害をもたらした。

だからそうした「猛火」にも変わってしまう「言葉」を用いるにあたっては、どうしても「知恵」が必要となるだろう。 自分の感情に任せて、言いたいことをただ主張するのでは、いかなる関係も破綻せざるを得ないだろう。 そこで「知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」という勧めが胸に響く。 この個所は「知恵は柔軟な振る舞いと相性がいい」とも訳すことが出来るが、「知恵」は柔らかな思考、そしてそこから生まれる柔らかな言葉、そしてその言葉が形となった行動として現れるのである。 「柔和」という用語は、「やさしく人当たりがよく、落ち着いて温和な」という一般的な意味合いと共に、「自由自在 な、順応性 のある、適応性のある」という意味も含んでいるのである。 「柳に風、豆腐にかすがい、暖簾に腕押し」と諺で語られるようなニュアンスが含まれる言葉である。 そして何より言葉は、それを語る人の「生き方」に如実に反映されるのである。 「立派な生き方によって示しなさい」は、「その人の語る言葉が、その人の生き方に現れ出て、その人の良さ(悪さ)もそのまま映し出すだろう」と理解されよう。 人はことばを用いる限り、ほんとうの自分自身を隠して生きることはできない。 だから4節「しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません」という勧めも、心の底に何があるのか、善意や思いやりや慈しみ、そればかりか妬みや自分勝手、ひいては自慢や嘘もまた、いつか外に現れ出るという現実を物語っているだろう。

そこで問題は、私たちは生きる時のまことの「知恵」をどこから学んだら良いのか、どのように身に付ければ良いのかということである。 ここで手紙の著者は「上から出た知恵」というキーワードを用いている。 文字通りには、「神の知恵、神の与える知恵」、ということだが、そんな途方もない知恵をどこに見出すことが出来るのか、まさに途方に暮れるではないか。 18節「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」。 このみ言葉の背後には、主イエスの山上の説教の一節があるだろう。 「幸い、平和を実現する人々、その人は神の子と呼ばれる」。 主イエスは、神のことばが肉となって、この世に降られた神の子と言われる。 私たちのもとに来られた、神の知恵の具体化なのである。 この主の言葉に聞く時に、私たちはキリストの平和を知り、それを味わい、その平和の中に生きるようになり、神の子のひとりとなるのである。

「国連が先日まとめた2025年版『世界幸福度報告書』で、幸せを左右する要素を取り上げている。その一つが、誰かと一緒に食事を取ることだった。 食卓を囲む機会の多い人ほど、生活満足度は高く、否定的な感情が少なかったという。 『おいしい』も『幸せ』も自分一人きりだったら、それほど口にすることはない。 顔を見合わせ、言える相手が欲しい。 それも相づちを打ってくれる相手なら、言うことはない。 いっそう同じ心持ちになれる気がする(3月28日付「天風録」)」、主イエスと共なる人生、そのみ言葉によって歩むことが、どれ程の人生の幸いであるか、深く心巡らせたい。