祈祷会・聖書の学び コリントの信徒への手紙二2章5~17節

「手紙は夜に書いてはいけない」、中学生時代に習った、ある国語科教師の言葉である。夜は静かなので、とかく感情の起伏が激しくなりやすく、それが文章にまで反映するから、という理由。同じような教えを、神学生時代にも耳にした。「説教学」の授業で、担当教授が説教にまつわる、ひとつの言葉を紹介された。「夜作られた説教は、昼の光に耐えられない(ルター)」。駆け出しの頃は、なかなか説教の準備が捗らず、日曜当日の明け方までかかってようやく、ということもしばしばであった。しかしいつの頃からか、夜遅くまで起きていることが辛くなり、説教の準備も、昼間の内でなければ進まなくなった。これも「亀の甲より年の功」というものか。名説教家だった神学者シュライエルマッハーは、土曜日にはいつも暖炉の前に座り、ぼうーっとして鼻くそをほじっていたという逸話も伝わっている。夜、追い詰められたような中では、勢い苦し紛れの話にもなるだろう。主イエスの復活の出来事も、「朝、ごく早い内」に起ったと伝えられている。福音は、朝の光と共にもたらされるものであろう。

新約聖書中の諸文書の中で、最も多く収められているのが「パウロの手紙」である。その中には、パウロ自身の手になるものではなく、後世の教会の、知られざる誰かによって記された書物もあるが、それでも真正パウロの手紙は数多い。それでも新約聖書に収められている書簡だけではなくて、現在では失われてしまったパウロ自身の書簡も、存在したようなのである。

今日の個所のすぐ前節にこう記されている。「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした(4節)」。この言葉から察するに、どうも彼は非常に感情の高ぶった、鋭く相手を断罪するような、厳しい裁きに満ちた手紙を、コリントの教会に書き送ったらしいのである。聖書学者たちは、今では失われているその書簡を、仮に『涙の手紙』と呼び、コリント後書の6章14節~7章1節までのパラグラフを、その断片である可能性が高い、と見ている。但し『涙の手紙』以外にも、エルサレム教会の苦境(飢饉)を救うべく、パウロが義援金を募り、コリントの教会員がそれに応えてくれたことに対して感謝の意を表する『感謝の手紙』の一部と見なされる部分も、本書に見出せる。

だから『コリントの信徒へ手紙二』は、少なくとも3つ以上の、異なった時期に書き送られたパウロの手紙が、教会間で回覧し、朗読される内に、ひとつに合わせられてしまったという事情が背後にあるらしい。現代のように、コーデックスという形で、しっかりと綴じられて製本されていた訳ではなく、一枚づつ、ばらばらのパピルスに記されていたろうから、混ざり合い、またいくつかの部分は紛失してしまい、このような体裁になったという次第である。

『涙の手紙』の内容については、詳細は知り得ないものの、ある程度、今日の個所等から想像できるだろう。コリントの教会員の中に、倫理的、信仰的逸脱、また分派活動、あるいは、反パウロ的な言動によって、教会員をひどく動揺させるような輩があったのだろう。その面々に向かって、非常に激しく、罵るかのような叱責を、これでもかと連ねた文言によって記された書簡を、パウロが書き送ったことに間違いはないだろう。パウロはタルソス生まれのディアスポラ・ユダヤ人の家庭に生まれ、しっかりとした教育を受けたようだから、ギリシャ語に堪能、饒舌はお手の物であったろう。しかし、いくら文筆に長けていても、時の勢いに任せて記し、そのまま送ってしまったことに、後になって彼自身、後悔の念が生じたのであろう。「獅子は愛する子を谷底に突き落とす」と言われるが、(ライオンはそんな面倒なことはしない、そんな暇があったら、寝ている)、「厳しさ」がいつも人間の向上や、回心に役立つとは限らない。それで、やはりコリントの教会の人々のことが心配になって、「コリントの手紙二」を出したということなのだろう。13節「兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました」。自分の名代としてコリントに派遣したテトスから、その後の教会の様子を知ろうとしたが、直接、会って話すことができなかったのである。

だから、こう書き送るしかなかったのであろう。9節「わたしが前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした」。「前の手紙」とは当然『涙の手紙』のことであり、あれはコリント教会への深い愛情、老婆心から出たもので、決して憎悪から出たのではない、と言い訳めいた訴えをするのである。さらに10節「あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです」。コリントの人々を、問題を起こした人を含めて、すべて「赦す」と言わざるを得なかった。

しかしこの時、恐らくパウロは若い頃の或る体験を思い出しているのだろう。まだ復活のキリストに出会う前、キリスト者たちを信仰の敵として、憎しみをたぎらせていた頃に、たまたま出会った、ひとりの使徒の姿と、その最期の言葉を思い起していたのである。出会ったと言っても、他の仲間のユダヤ人たちの荷物番をしていて、遠巻きに見ていたに過ぎなかったろうが。ユダヤ人たちに対して、過激に挑発的に議論するステファノの態度に、無数の石が投げ付けられたのである。ところが最初の殉教者はどのような最期を迎えたのか。「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、ひざまづいて『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ」(言行録7章59節)。

自ら石を投げたのではなかろうが、パウロにとってステファノの最期の祈りは忘れられないものであったろう。自分に石を投げつける者たちに対して、神に「赦し」を願うその祈りが、どこから、何から来るものか、長い間、分からなかったのではないか。そしてその後、キリスト者迫害に意気込んでダマスコに向かう途上、復活のイエスにお会いしたのである。そこでステファノの赦しの祈りの奥にある事柄、即ち「主の十字架」が見えた。この体験によって、彼の心は、いつも主の十字架へと向けられることとなった。ここに彼の赦しの根拠がある。自分もまた赦された、という経験が、彼の後半生に滲んでいる。