かつて牧会研修で、こういう話を聞いた。牧師は訪問するいろいろな方の、さまざまな話を伺う。面談に来られたある人が「会社が倒産して、自分は何もかも失ってしまった」と悲痛な顔で訴えたという。その方の余りの落胆をみた牧師は、一枚の紙と鉛筆を渡して、「今から私がお尋ねすることに答えて、紙に書いてください」。「ご家族は?、ご友人は?、好きな食べ物は?、好きな場所は?、好きな歌は?」等など、ごくありふれた質問を牧師は問うていく。程なくすると白い紙は、文字で一杯に埋められた。おもむろに牧師は言う「あなたは嘘をつきましたね、こんなにもたくさんのものが、あなたには残っているではありませんか」。出来過ぎのような話で、真偽のほどは知れないが、狭くされた心を拡げる方法の一つであろう。
「落ち込んだ時や強いストレスを感じた時、『ジャーナリング』という対処法があることを知った。自分の感情を紙に書き写す方法だ。思い浮かんだ言葉を羅列するだけでいい。書くことで心の中が整理され、自分を見つめ直すことができる。こんなことも考えていたんだと、新たな気づきを得ることもあるという。思いは目に見えないが、言葉にしたり紙に書いたりすることで命を与えることができる。夢や目標実現への第1ステップともいわれる。心配事が現実になることは意外に少ない。むしろ油断している時の方が怖い」(7月7日付「有明抄」)。
ストレス多い現代生活、それへの対処法が求められる時代である。あれもこれもの事柄に向かい合わなければならない、という中でその根本に、何が第一か、何から始めるべきなのか、が分からなくなってしまっているというのが、一番の問題であろう。余計なものは潔く捨てたらよいのだが、何を捨てるべきか、ということは何を選ぶべきかが分からないならば、始まらないのである。この頃、「何々ファースト」というプロパガンダが声高に叫ばれているが、何が一番か分からなくなっている証なのだろう。
今日はテモテへの手紙一2章からお話をする。テモテ宛の2つの手紙、テトス宛の手紙は、パウロが2人の弟子に、教会運営上の指示を伝えた書簡として、古くから『牧会書簡』と呼ばれて来た。『牧会』とは、「牧師」の職務であり、日本語では、教会を羊の群れに喩えて、これを養い世話をすること、という意味の用語で表現している。他方、「牧会」は「ゼール・ゾルゲ」という言葉にも言い換えられている。「魂の配慮」「魂に心配りすること」、これは確かに重要な働きであろう。しかし人間の根源、深淵、土台とみなされる魂は、人の目には見えない、見ることができない部分である、それを養い支え、ケアすることなど、本来、同じ人間どうしとしては「到底無理難題」である。だから、人の魂に、目には見えないが、神が確かに働いてくださる、その働きそのものが、魂への配慮なのである、神の御手なしには「牧会」はなされえない。
しかし何ほどか、その神の御手のお手伝いをすることは出来るだろう。それが「牧会」と呼ばれる仕事である。ところが、「人間には無理」なことを、敢えて行なおうとするものだから、どうしても悩みや壁、自分の能力ではどうにもできないことが立ち起こって来る。パウロの弟子、テモテもテトスも同様であった。教会の務めを担う内に、どうにもならなくなってしまったのだろう。それを知った師のパウロが、彼らに助言する手紙を書き送った、という体裁で記されている。但し、テモテとテトスばかりではない。当のパウロもまた、何度も壁にぶつかったし、躊躇し、立ち往生し、どうにもならなくなってしまったことが、何度もあったのである。そのように苦しんだからこそ、語れる言葉というものがあるだろう。
今日の聖書個所の冒頭に、「まず第一に勧めます」と呼びかけの言葉がある。直訳すれば「すべてのものの中で、最初に(何をしたらよいのか)」、いろいろやるべきことはあるだろう、どれもないがしろにはできないが 全部やることはできないだろうから、その中でこれから始めたら、という勧めである。まさに「牧会書簡」らしい発言ではないか。
「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」、「願い祈りとりなし感謝」これらの4つの用語は、すべて「祈り」を意味する別々の用語である。「祈り」をいろいろに言い換える、語彙力のある所を誇示しているような雰囲気だが、とにかく「祈れ」とばかり、祈りが強調されている。何がなくても、何はともあれ、「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」。「願いと祈りと執り成しと感謝」、これら全て、「祈り」を意味する用語なのであるが、みな異なる語源を持つ用語であるところが、興味深い。古代から、信仰とは「祈ること」であると見なされてきたことの証である。
「願い」と訳されている言葉、元々は「欠け、欠乏、不足」を表す言葉が元になっている。人は自分では満たせない欠如を抱えるがゆえに祈る。「祈り」はぬかずく、最も一般的な「祈り」を表す用語である。さらに「執り成し」は「たまたま出くわす」とか「出会い」という意味の言葉が元になっており、「仲違いや対立をしている時に、偶々出会った人が、間に入ってなだめたり、諫めたりしてくれる」というような状況を表している。「仲裁は時の氏神」ならぬ「祈りは時の氏神」である。そして最後の「感謝」も文字通りその意味である。感謝のない祈りはない。もし感謝がなければ祈りではない。まとめれば、ここで語られる「祈り」とは、祈りのすべての側面を語ってくれている。祈りとは、自分の欠けや欠乏、不足を思い、嘆きつつ、他に行く宛もなく、寄る辺もない時に、向こうから主イエスが、わたしの所にお出でくださり、出会われ執り成してくださる、その不思議さと幸いを思い、感謝する。祈りとは、それ以上でもそれ以下でもないだろう
「祈りファースト」ということだが、こう言われると、「あたりまえ、それは分かっている」という声が聞こえてきそうである。それでも「あたりまえ」のことが、なかなかできない、忘れている、いつでもできる、と思って、おざなりになっている私たちの現実があるだろう。そして祈りは「すべての人のために」、それも「王たちやすべての高官のためにもささげなさい」と言われる。こういう勧めに、初代教会の置かれた立ち位置も読み取れる。迫害の中で自分たちが生きるということ、具体的には衣食住という生活、家族、仕事、生計、そして教会の仲間たちのために祈ることから、一歩踏み出そうという、「すべての人」さらに「王や高官」のために祈ろうというのである、皆さんはできるか、「上に立つ人」というものはどうも気まま勝手放題をしているように見える、上にいる人は何も心配事や困難事などない、と思っているが、その人たちも、「人間」なのである、「人間」に過ぎない、病気にもなるし責められもする、人である限り、全ての者がつらさや痛む、ということを知るのも、「祈り」においてなのである。
ではなぜ「祈りから」なのであろうか。2節後半に、こう語られている「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」。まず「常に信心と品位を保ち」と勧められる。この翻訳には少々問題がある。「信心と品位」、こう訳すと、殊更に各人の人間性が問題にされる恐れがある。上品だ、下品だ、正直者だ、嘘つきだ、誠実だ、不誠実だ、等々、その人の人物評価のように見なされてしまう。原語はどちらも、「礼拝」に関係する信仰者の姿勢を表す用語である。どちらも「敬虔(パイエティ)」を意味し、それは「きちんと礼拝に出席する、礼拝を守る」というあり方を示している。本来、礼拝に集うとは、その人の信仰の度合い、つまり熱心か不真面目か、几帳面かだらしないか等の個人的資質は、まったく問題にならない。わたしたちは、ただ恵みによって招かれ、ありのままそのままで神のみ前に出て、主イエスのみもとに赴くのである。それが礼拝に出席するということである。ありのまま、そのまま以外であったら、取り繕いであり、神に一番の失礼である。そういう神がありのままの私がそこにあることを喜ばれる、という心、魂があるかどうか、だけが問題である。
だからそこから「平穏で落ち着いた生活」が生まれるであろうという。この「平穏で落ち着いた生活」という言葉も、その背後の意味を知ることは興味深い。「捨てられる」とか「寂しい場所」、「人の声の聞こえない」という意味合いの言葉が「平穏で落ち着いた」の語源なのである。主イエスが、しばし自分の宣教の働きを離れ、寂しい所、荒れ野で祈られたという姿、これが「平穏で落ち着いた生活」の有様のすべてである。
「雑音」とは言えないが、人の声、(他人の声ばかりか自分の声も)というものは、いろいろに私を混乱させる、毀誉褒貶のいずれでも、混乱つまり困惑、後悔、思い込み、腹立ち等、いろいろな感情を逆なでする事柄に満ちている。このすべての人間の取り繕いから解き放たれ、神の前にありのままに受け入れられること、つまりほんとうに礼拝が守れるなら、そこから静かで落ち着いた、地に足の着いた、日常の平安と安心が生まれて来るだろう。確かにこのみ言葉は、新約の中でも美しい言葉のひとつではないだろうか。
最初に「ジャーナリング」について語った。もう少し続けよう「ジャーナリングは『書く瞑想(めいそう)』とも呼ばれる。ネガティブな感情もことで、その中に幸せの芽が隠れていることに気づいたりする。きょうは七夕。織り姫とひこ星が年に一度、天の川を渡って出会う日だ。願い事を書いた短冊を笹(ささ)の葉に飾り付けるのは日本独自の風習という。書くことで思いは強くなる。書くことで知識も定着する。目と指先が記した文字を心に刻むからだろう。だから不安より勇気や希望につながる言葉を。書く力を高めたいと願う七夕である」。
七夕には笹の葉に短冊を飾り、願いを記す、という風習はこの国独自だそうだ。短冊書きは、今は幼稚園の行事だけになっているかもしれないが、この国の祈りのかたちを表しているだろう。今、祈りが子どもたちだけのものになって、大人たちの祈りの喪失がここにあるだろう。祈りは、「まず第一に」を問題とする。それを心の真ん中において、祈るのである。主イエスは「わたしの名によって、何でも神に祈りなさい」と言われた。「何でも」よい、しかし神に聞いていただくのである、そのことの第一は、「わたしの名によって」、主イエスも共に祈ろうと言ってくださる、そのみ言葉に励まされて、祈りから始めるのである。