祈祷会・聖書の学び ヤコブの手紙1章1~11節

ある製薬会社(ファイザー社)が、この国の慢性疼痛を抱える20代以上の男女約9,000人を対象にインターネット調査を実施したという。 その結果、「痛みがあってもある程度、我慢するべきだと思っていますか」という質問では、「非常にそう思う」(10.5%)と「ややそう思う」(56.1%)を合わせると66.6%となり、「痛み」があっても我慢をすると考えている人が7割近くにのぼった。 また、「痛いということを、簡単に他人に言うべきではないと思いますか」に対しては、「非常にそう思う」(9.7%)と「ややそう思う」(44.5%)が54.1%となり、依然として「痛み」を自分だけで抱えている人が半数以上を占める結果だった。 次に、「長く続く痛みに対して、痛みが治ることを諦めていますか」では、「非常にそう思う」(19.9%)、「ややそう思う」(49.2%)で69.1%となり、約7割の回答者が痛みの治療を諦めていることが判明した、という。

WHO(世界保健機関)は、「痛みに対応しない医師は倫理的に許されない」と記しており、「痛み」の除去ないし緩和は、医療の重要項目であることが告げられている。 現在、専門の医療機関「ペインクリニック」の存在も徐々にこの国に浸透して来ている。 しかし、けがや病気、その他の痛みに対して、この国の人々は、随分.がまん強く辛抱し、忍耐をしていることが、伝わってくるような調査結果である。 そういえば、小さい頃、つまずいて転んだ時も、「泣くな!」と叱責された記憶を持つ方も多かろう。

病気やけがしたときに感じる「痛み」は、人生の「試練」の最も身近で具体的な感覚だろう。 だからそれに耐える力を身に付ければ、もっと大きな人生の試練が襲っても克服できる心構えが生まれるb、ということだろうか。 病気やけがの「痛み」は、人生の試練の比喩としてふさわしいかどうかはひとまず置くとして、生きる時に味わうもろもろの苦しさ、つらさ、「痛み」を、まずは「がまんすべきもの」と一概に決めつけるのは、いかがなものだろうか。

今日は「ヤコブの手紙」を取り上げる。 かの宗教改革者、マルティン・ルターが「藁の書」と呼んだことでつとに有名である。 即ち、この書には十字架も復活も全く記されていない。 それどころか「人が救われるのは行いによる」と主張し、信仰よりも行いが大事だと繰り返し強調する。 これは聖書全体の福音的な教えに逆行し、新約聖書の正典の中に入れる価値もない、というような理由で激しく非難したことによる。 但し「信仰」か「行為」か、という極端な二分法で、すべてを論じるのは、性急であるし偏狭な思考であるだろう。 こと生きる現実から考えれば、どちらも必要なのは言うまでもない。

通説では、この書簡は、主の兄弟ヤコブを著者として、行き過ぎたパウロ主義的「信仰義認」論を批判する目的で記されたと理解されている。 確かに2章11節「行いの伴わない信仰を見せなさい。そうすればわたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」というあれかこれかの挑戦的な文言は、極端なパウロ主義者への当てつけとして、納得できるようにも思われる。 これをすぐにパウロ的「信仰義認」批判として受け取るよりは、ひじょうに観念的に閉ざされた信仰理解全般に対する(パウロの主張をてこにしても論じられた)反駁として受けとめる方が、理にかなっているのではないか。

それよりもこの書簡の最大の特徴は、わずか5章、108節からなるこの手紙の中に、命令形がなんと44回、 命令形を含む節が54節、全体の50%にも達しているという記述の仕方である。 今日の個所、1章の11節までですら、8つの命令文が含まれている。 ほぼ1つの節にひとつの命令が記されるのである。 このような様式の背景には何があるのか、聖書学者たちはさまざまに考察を加えている。 従来、「訓戒」的な叙述の仕方から、使徒教父たちの文書と共通する要素を重視し、機構や組織を整えつつあった教会への指針を記した文書と見なす立場が主流であったが、最近では、ヤコブ書が「書簡」であることが改めて主張されている。 とりわけ「ヤコブから離散している12部族の人々へ」という本書の前書き(1:1)から、ヤコブ書の文学類型は、エルサレムの権威ある個人や共同体から離散(ディアスポラ)のユダヤ人共同体に宛てられた「ディアスポラ書簡」という形式で記されたものという理解が広まっている。 それは、旧約聖書のエレミヤ書(29章1~23節)、使徒言行録の「使徒教令」(15章23~29節)と共通する要素である。 つまりユダヤ戦争による崩壊によって各地に散らされた信仰者を、かつてのイスラエルの苦難、試練に準えて、信仰を鼓舞する励ましの書簡として送られたというのである。 命令口調が多いのも、旧約の律法をイメージしたのかもしれない。 キリスト者にとって、もはや律法は主イエスによって破棄ではなく完成されたのである。 ではその完成とはどのような形を取るのか、表現を試みたということだろうか。

ヤコブ書は「離散している十二部族」というパレスチナ以外のユダヤ人キリスト教徒に宛てて書かれている。 異教の世界で生きる彼らは、バビロン捕囚の時と同様に「試練・誘惑」の問題に遭遇している。 2節「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」。 「試練・誘惑」とは具体的に、第一に、「信仰が試されること」と理解されている。 異教徒からの迫害、無関心、白眼視等の無理解によって、信仰が揺らぐという状態に置かれるというのである。 「疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています」という具合に、不安、怖れに捉えられて、絶えず動揺しながら生活することになるであろう。 8節「心が定まらず、生き方全体に安定を欠く」のである。

ところが問題は、心が不安定な時に、「忍耐」こそが必要だと主張されるのだが、そもそも「忍耐」とはどのようなあり様を意味するのかが問われねばならないだろう。 つらい痛みをぐっとこらえてがまんして生きよ、というような有体の勧めでは、果たして健やかに生きることが出来るのか。 ペインクリニックでは、痛みの除去にモルヒネ(麻薬)が用いられることが多い。 あるいは看護者や医師の文字通り「手当て」が、有効なこともよく知られている。 「忍耐」とは「ただひとりでがまんすること」ではない。 主イエスは、十字架で、左右に二人の犯罪人と共に亡くなられた。 その内のひとりは、主イエスに暴言を吐いたことが伝えられている。 しかしその罪人の隣に主イエスは居られるのである。 「忍耐」があるとしたら、それは私たちのがまんする力ではなくて、主イエスのこころこそであろう。 主イエスは、痛みの中で私たちを見捨てず、最後まで共におられる、これこそ主の忍耐のあらわれである。 この主の忍耐によって、私たちは、生かされるのである。