イースター礼拝「恐れながらも大いに喜び」 マタイによる福音書28章1~10節

祝イースター、喜びの内に、主のよみがえりの時を迎え、深く感謝したい。このイースターの時期に、アメリカのメディアでは、「クリスマス」の話題がしきりに伝えられているという。「トランプ氏はクリスマスを中止したのか」。どういうことか。ある日本の新聞がこう紹介している「受注が激減し、生産の見通しも立たない。米国の輸入業者や中国製の原材料に頼る玩具メーカーも戦々恐々としている。輸入する玩具やクリスマス飾りの約8割は中国製。すぐに代替できる国は見当たらない。『トランプ氏はクリスマスを中止したのか』と見出しをつけたメディアもある。子どもたちの夢まで貿易戦争の道連れになるのか。英作家チャールズ・ディケンズの『クリスマス・キャロル』で強欲な主人公を改心させた精霊たちにお出まし願い、トランプ氏に未来の姿を示してもらいたいところである」(4月11日付「余録」)。子どもの笑顔が消えてしまうような政治や政策は、歴史をざっと見るならば、みな滅んでいることが知れる。「子どもたちの夢まで貿易戦争の道連れになるのか」。

「正義」がことの他揺らいでいる昨今であるからか、朝ドラの影響もあってか、現在、やなせたかし氏の晩年の言葉が、時折話題に上っている。2012年に放送された某テレビ番組「100年インタビュー」では、氏(当時93歳)の亡くなる1年前の肉声を伝えているが、今も色あせないような珠玉のやり取りがなされている。少し紹介したい。

アナウンサー「やなせさんがお描きになるヒーロー『アンパンマン』は、ただ強いだけのヒーローじゃないですよね」。やなせ氏「いやぁ、そのスゴイ弱いです。今までね、世界中にいるヒーローの中で一番弱いね。なぜかというと、ちょっと雨に濡れても弱る。ちょっと泥が付いても弱る。そして顔が曲がっても弱る。すぐですね、『ジャムおじさん助けて』って言ってね、ジャムおじさんに顔を作り直してもらわないと戦えないんですよ。しかし、いざという時には戦う。中にはですね、アンパンマンはアンパンチでバイキンマンをやっつける。これはこの暴力ではないかという人がいるんですよね。そうじゃない。アンパンと、つまり食品とばい菌でしょう?我々は、風邪を引いたり、いろいろしますね。その時は必ずね、風邪薬とかいろんなもの、あるいはワクチンを打ったりしてですね、やっつけるわけですね。それじゃあ、ばい菌は死んでしまうのかというと、死なない。また新型のができてですね、また新しいワクチンを作る。そういう戦いなんですよ」。どちらも決して死んで終わりにはならない」。

さて、今日の聖書個所は、マタイによる福音書の復活物語である。復活の出来事とは何か、こう語り出される。「さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に」。ユダヤ教の礼拝が守られる日は、神の安息にあずかる日、週の終わりの日、土曜日である。他方、キリスト者たちは、礼拝をその次の日、日曜日に守った。それは、その日に主イエスが復活されたというこの一事による。ユダヤ教では、土曜日は安息日、つまり休みの日、いかなる労働もしてはならない日である。その日に礼拝を守る、これは実にふさわしいことであろう。ところが日曜日は、素より休日ではない、週の初めの日は、休み明けの仕事の日なのである。休み明けには、大抵、新たな仕事が溜まっている。それを処理すべく腰を上げねばならない重要な日なのである。勤め人ならば、自分のボス、パトロンの所に顔を出してご機嫌を伺い、主人が今、何を期待しているのかを察知して、いち早く行動を起こさねばならない。だからこの日に礼拝を守る、というのは、実に大きく制約やバイアスがかかるのである。この国では、日曜日でも、仕事の為休めないので、礼拝もままならないという声を聴くことがあるが、古代でも同じく日曜日に礼拝を守ることに困難さが、付き纏っていたのである。

それでもキリスト者は、日曜日の朝に礼拝を守ることを止めなかった。明け方の前、まだ薄暗い内に教会に集まり、礼拝を守り、それから仕事に出かける者も多かったであろう。前日の夕方から礼拝が開始され、翌朝まで続くことも多かったから、徹夜することも度々だったであろう。なぜそれ程日曜日に拘ったのか、それはキリスト者にとって、主の復活の出来事、これを記念し、その出来事にあずかることが、何にもまして重要だったからである。もし復活の出来事がリアルでなかったなら、そこまで社会的な困難や無理解を押してまで、固執しなかったろう。初代教会の人々にとって、復活とはそれ程リアルな出来事だったのである。

しかし復活の出来事は、「週の初めの日の明け方」より前の、まだ暗い内に起ったのである。つまり「暗い内」とは、誰も気づかない内に、ということで、マタイによれば主を葬った墓は、番兵たちが見張りをしていたというのである。その番兵たちも気づかなかった。大きな地震が起こり、墓の蓋石が転がるほどだった、と伝えられるが、もうすでにその時には、主イエスは墓に横たわってはおらず、既に復活していたというのである。

墓を見張っていた番兵でさえも、知らなかったとは、誰も気づかない、誰にも分からない、見えない中に、即ち、見通しのきかない、先行きの見えない中に、復活の出来事は生じたとマタイは主張しているのである。復活は「人知らず、見えない中に起る」というマタイのメッセージを皆さんはどう聞くだろうか。

まだ暗い中、見えない中、見通しが立たない中、人間は右往左往する、立ち往生する、そこで私たちはどうなるのか、またどうするのか。聖書は、そこに必ずみ言葉が告げられることを教える。様々な所で、いろいろな方法で、思ってもみない手段で、神はみ言葉を私たちに示される。5節「天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」』」。それを聞いた女たちはどうしたか「恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」。「恐れ」と「喜び」この2つの思いで、走った!というのである。人間の心にはその都度、いろいろな感情が湧き起こり、交錯するが、それを突き詰めて最も単純に表現すれば、この「恐れと喜び」がいつも綱引きをしていると言えるだろう。やなせ氏の言葉「アンパンとばい菌でしょう?我々は、風邪を引いたり、いろいろしますね。その時は必ずね、風邪薬とかいろんなもの、あるいはワクチンを打ったりしてですね、やっつけるわけですね。それじゃあ、ばい菌は死んでしまうのかというと、死なない」。恐れに飲み込まれてしまったら、二進も三進も行かなくなる、そうかといって、喜びだけでいつも有頂天になっている訳にも行かず、居ても立ってもいられず、走り出す、そしてそこに復活の主イエスが出会われる、というのである。9節「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。

この主の呼びかけの言葉「おはよう」を皆はどう聞くか。朝だから「おはよう」というあいさつは当然と思うが、復活の主の第一声である。口語訳では「平安あれ」と訳していた。「おはよう」は日常生活臭がぷんぷんで、砕けすぎと感じるか。いや、主の「おはよう」によって、女たちの日常、いつもが回復されたとは言えないだろうか。悲しみに沈み、その遺体に香を塗り、帰らぬ人にせめてもの敬弔のまことを致す、これは人として最も気高い振る舞いだろうが、日常から隔絶された喪のあり方である。後に残された者は、そこにずっと留まることはできない。そこに主イエスの「おはよう」のことばである。いつもと同じ、変わらない声とことばで「おはよう」とよみがえりの主は告げる。

「おはよう」、原文を直訳すると、「喜べ」という意味の用語である。ただギリシア語ではその「喜びなさい」という言い方が、ごく日常の挨拶として用いられていた。さらに「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」、さらに「さようなら」も全部同じように、「喜びなさい」という言い方をしていたのである。

やなせ氏のインタビューの言葉をもう少し。「お腹の中にも無数のばい菌がいる。しかしこの中にも、いいばい菌と悪いばい菌がいる。そのバランスがちょうどいい時が健康なんです。悪いバイキンを全部殺してしまうとダメなの。これは、この世の中も同じなんでね。例えばですね、全部反対派をやっつけてしまうとですね、ファシズムになるんです。全体主義になってしまう。その国家はね、いずれは滅亡するんです。だから、アンパンマン対バイキンマンの戦いというのは、永遠に続いていくわけ。いくらやっつけられても死ぬことはありません。また、出てきます。そういう原則をこのお話の中に入れてあるんですよ」。氏は「復活の原則」と言いたいのかもしれない。

イエスは言われた。『恐れることはない』」。「おはよう、喜びなさい、恐れることはない」、復活とは、この主の言葉を、繰り返し、毎日新しく、聞いてゆくこと、聞けるということなのである。私たちの「おはよう」の言葉に、主イエスの「おはよう」が重なっている。生き物は生命を持つ存在として、見えない戦いをせざるを得ないようにできている。この「おはよう、喜べ」この言葉一つでも、私たちは「ばいきん」と戦うことが出来るし、免疫も高まるだろう。「恐れと喜び」の揺れ動く間に、主イエスの「おはよう」のみ言葉が、今も響いているのだから。