最初に、グレゴリオ聖歌を聴きたい。『怒りの日』と題された古い聖歌のひとつである。歌詞は次の通り、「(怒りの日)その日はダビデとシビラの預言のとおり、世界が灰燼に帰す日、審判者があらわれ、すべてが厳しく裁かれるとき、その恐ろしさはいかばかりか」。随分物騒な歌詞である。そしてメロディもそこはかとない不気味さが感じられる。しかしこの聖歌は後に、さまざまな有名な作曲家、例えばモーツアルト、リスト、ベルリオーズなどがこのメロディを用いて自らの作品を仕立てている。最近も映画や、ゲーム、CMのBGMにも用いられている。それ程、有名な曲なのである。
「神の怒り」皆さんはこれをどう考えるだろうか。聖書を読んで間もない頃、いくつも聖書に引っかかるものを感じた。そのひとつ、大きなひとつが、今も引っかかったままなのだが、「神の怒り」である。神は小さな人間、それは罪も犯すし、過ちも犯すだろう、しかし本当に自分が望んで生まれてきたのでもない生涯を、決して長くない生涯を歩んでいる人間に、しかも大方は我慢して、自分のわがまま通りには生きていない人間に、ことさら怒りを向けられるのか。神は「怒りの神」なのか。
今日の聖書の個所は、受難週に必ず読まれるテキストのひとつであるが、主イエスの受難を預言するものとして理解されて来た。「ぶどう踏み」の情景が語られている。聖書の人々ばかりでなく地中海周辺地域に住む人々、つまり豊かなぶどうの実る産地に住む人にとって、ぶどうの収穫の時ほど、その幸いを祝う喜びはなかったであろう。甘く滴る果実を生食する他、その実を乾燥させ「干しブドウ」にして菓子として、年間を通じて賞味するばかりか、発酵させぶどう酒にして楽しむことができるのである。聖書の世界は芳醇なぶどう酒の産地でもあったし、聖書の人々は、酒作りに非情に巧みであったとも伝えられる。古にイスラエルの民がエジプトで奴隷だった時には、彼らはファラオに献上する上等のぶどう酒を作っていたとも言われる。
ぶどう酒作りには、大石をくりぬいて作られた「酒槽」に沢山のぶどうの実を投げ入れ、これを足で踏んで搾汁することに始まる。この時ばかりは、おとなしく作業することなぞできない。村中の人々が総出で酒槽の置かれている広場に集まり、互いに歌を歌い、踊りながら楽しくぶどうの実を踏むのである。この国の酒造りの時も、杜氏が歌を歌いながら仕込みをする。するといい塩梅の力加減も生じるらしいが、何より喜び楽しみの感情が、ほとばしるのである。うまい酒は喜びの発露から生まれるというのも、自然の情であろう。
しかし、ここで語られる光景は、大いなる神の恵みに感謝する「祝祭」としての「ぶどう踏み」ではない。グロテスクとも言える「神のぶどう踏み」の異様な光景である。エドムから、その都のボツラから、赤く染まった衣を着てやって来る者がある。エドムはヤコブ(イスラエル)に対抗する双子の兄、エサウのゆかりの地である。その者は「勢い余って前につんのめっている」という。この異様な風体を見て、人がこれに尋ねたという。「なぜ貴公の衣は、ぶどうを踏んだように赤いのか」、それに答えてこの者が言う。「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴び、わたしは着物を汚した」。
この者は、「ただ一人、酒ぶねを踏んだ」という。ぶどう踏みは、喜びに満たされた大勢のものたちが、恵みに感謝して、共に喜びつつ行うものだ。「たった一人で」とは、ぶどう踏みに最もふさわしくない振る舞いである。どうしてか。誰も自分に与せず、誰もかれも不従順なので、たった一人で、怒りをもって、憤りをもって、まつろわぬ諸国の民を踏み砕いたのだという。6節「わたしは怒りをもって諸国の民を踏みにじり/わたしの憤りをもって彼らを酔わせ/彼らの血を大地に流れさせた」。神は、この上ない怒りと憤りとをもって、諸国民、イスラエルをも含めて、罪ある者たち、そのみ言葉に耳を傾けぬ不従順の民を、踏みにじり、踏み破り、踏みつぶす」というのである。もっとも喜ばしい祭りの時が、残忍な血の粛清の時となる、というのである。黙示録14章には、このヴィジョンが増幅されて記されている。19節「そこで、その天使は、地に鎌を投げ入れて地上のぶどうを取り入れ、これを神の怒りの大きな搾り桶に投げ入れた。搾り桶は、都の外で踏まれた。すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンにわたって広がった」。
私たちは、イザヤの語る「神の怒り」の表現に、何ほどかの違和感を抱くが、それは、「神の義」と深く繋がっており、神は人の罪に対して、なおざりにしたり、見過ごしにはなさらないことの表象である。人の目には、裁きの不徹底や遅延に思われる状況においても、神はその「義」を貫徹されるのである。しかし同時に、「神の憐れみ」もまたその「義」と軸を一にするものであり、両極ともいえるみわざを、ひとつにして行われるのである。神の怒りと憐れみとが、ひとつになって向かう先こそ、実に主イエス・キリストの十字架であり、そこにおいて、私たちは神の怒りの大きさと憐みの深さにおののくのである。実に神の怒りは御子の上に臨み、彼を切り裂き、それによって実に私たちに対する憐れみを表されたのである。
今日の個所、7節以下には、前節までと打って変わって、主の慈しみと恵みとが思い起こされ、こう告げられる。7節「わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を/主がわたしたちに賜ったすべてのことを/主がイスラエルの家に賜った多くの恵み/憐れみと豊かな慈しみを」。そしてイスラエルの神はどういう方であったか。9節「彼らの苦難を常に御自分の苦難とし/御前に仕える御使いによって彼らを救い/愛と憐れみをもって彼らを贖い/昔から常に/彼らを負い、彼らを担ってくださった」。しかし人間たちは、「彼らの苦難を常にご自分の苦難とする」ような、その慈しみと愛を忘れたのである。だから「主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた」、それがひとり子主イエスを、私たちの生きる地上へと送り、十字架への道を歩ませられたみこころなのである。