「同じ刑罰を受けて」ルカによる福音書23章32~49節

こんな新聞コラムを読んだ。「あるラジオ局が政治家に『クリスマスに願うことは』というインタビューをした。一人のある政治家は高価なものは願わない方が無難だろうと、『スリッパ』と答えた。その政治家、ラジオを聞いた。アナウンサーが言った。『政治家Aさんは地に平和、人には善意と答えました。Bさんはすべての戦争の停止を願いました。Cさんの答えはスリッパでした』。作家の池沢夏樹さんのエッセーにあった小咄(こばなし)を少々、短くさせていただいたが、英国での実話らしい」(3月27日付「筆洗」)。

政治家の発言を、ごく一部だけ切り取って、その言葉だけに焦点を当ててあげつらい、批判ばかりか非難することの是非が、しばしば論じられる。「ちょっと口が滑っただけだ、そんな意図は毛頭なかった」と弁解するものの、事情はそれほど単純でなく、敢えて意識的にそういう発言をする人や場合もあり、人間とは手に負えないものだとつくづく感じる。但し、「クリスマスに願うこと」と問われて、プレゼントのことしか想像できないとしたら、「政治家」である以前に、「大人」としてどうなのか。教会に集う私たち自身もどうか、問い直される気がする。

こんな文章を読んだ「第一印象は『難しそうな人』だった。初めてのあいさつに対し目も合わさず会釈するだけだったその男性は、いつも身なりに気を遣い、アクセサリーひとつにも自身のこだわりポイントが詰まっていた。ワンプレートディッシュの時も、ソースやタレが他の料理に触れることは必死に避けようとする。物を買う時には、たくさんの商品を徹底的に調べ上げ、自分のニーズが一番満たされる物を購入し」云々。世の中にこだわりの強い人はいるもので、何事にも、徹底的に、こまかく執着、吟味をすることを良しとする。皆さん方はどう感じるか、自身を引き比べてどう思われるか。

今年の受難週を迎えた。今日は「棕櫚の主日」である。主イエスがエルサレムに入城された日に、大勢の人々が「棕櫚の葉」を手に手に打ち振って、「ホサナ」と叫び歓迎して迎えたという故事を記念する聖日である。いよいよ「主の十字架の道すじが極まれり」、という大き山場を迎えた。ここにも「こだわり」が随所に見られる。主イエスご自身が「ろば」に乗って入城されたことも、その最たるものだろう。古の預言者の預言に従って、という風情であるが、大の大人が子ロバに乗って行進するのは、いささか手間であるし、歩みは遅い、転(ころば)ないよう気を付けなければならない。

共観福音書の中で、ルカの記述は独特である。他の福音書にはない「こだわり」を随所に持って、記している感がある。分かりやすい所では、主イエスが十字架に付けられた時、他に二人の者が並んで、十字架に付けられたことは、どの福音書も書いている。当時、十字架刑はさほど珍しい処刑方法ではなく、どちらかと言えばありふれた刑罰であったとも言える。何十人が同時に、時には百人くらいが一斉に処刑されることも、珍しくはなかったようである。マルコは他の二人を「強盗」であったと伝えているが、本来、十字架刑はローマ帝国、皇帝に反逆した者たちへの見せしめの刑罰だったから、「強盗」というのは、余り正確な表現ではない。ルカはそれに気づいているし、そもそも主イエスが強盗らと同列にされたのではたまらないと感じたのだろう、「犯罪者」と敢えて異なる単語を用いたのも著者のこだわりである。

しかし、それ以上に特異なのは、十字架上の主イエスの言葉が、いくつも記されることにあろう。その中でとりわけ印象深いのは、共に十字架に付けられた二人の「犯罪者」(今の言い方なら「政治犯」)との対話が記されることが、他の福音書にみられない一番の特色である。皆さんはこの2人の強盗と対話する、主イエスの言葉どう受け止めているだろうか。三人は皆、同じように十字架に架けられて、同じ苦しみや痛みを味わっている。その苦しみの中で、人は何を語るのか、それにどう答えることができるのか。

二人の政治犯が、主イエスの右と左に釘付けられている。この二人、自分の人生の最期に臨んで、まったく対照的な態度を取っていることが、興味深い。人間は、その死、終わりに臨んでも、人それぞれ、いろいろな態度を取る事ができる、というのである。人生の節々に、同じような状況や人生経験をする中でも、私たちが取る態度は、いわば自由である。自分の人生、とりわけ不条理で納得できないような体験の中で、どういう態度を取るだろうか。右と左に十字架に付けられている人々の、どちらに、わが身の態度は近いだろうか。

朴訥で愛想のない態度で振舞って、申し訳なさそうに「ワシ、不器用ですけん」という台詞を語る、かつてそういう演技が殊の外、似合った俳優がいたが、彼の演技に共感が集まるのは、おそらくほとんどの人が、人生でさほど器用に振舞えず、それで失敗をして来ているからであろう。確かに「態度」というものは、単純に人の表面に浮き出てきたことの表現をいうのではないだろう。人は内面を隠すために、外面を取り繕ったり装ったりするが、それがかえって内面を見透かす縁となることもしばしばである。

だから『夜と霧』の著者、V.E.フランクルは「態度価値」という考え方を語るのである。生きる時々に示す人間の態度というものは、皆同じではなく、人それぞれ、独自なものであるし、その人だけが表すことのできる「価値」と呼びうるものであろう。外的内的な要因で、人間は色々な態度を表に表す。問題は、そういう態度如何によって、周囲に快や不快、明るい暗い、元気、落胆等、いろいろに反応が生じて来る。但し、それは他の人の問題ではなく、その人自身の生き方、人生の質が変わるのである。にこやかな態度、卑屈な態度、ふてくされた態度、それぞれにその人生に陰を投げかけるであろう。そもそも生きるのはその自身であり、他の人ではない。

二人の内、一人は、主イエスをののしったという。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」「神の子ならば、自分を救え」。賛同するか否かとともかく、この言葉は実に良く分かるし、実感がこもっている。こんな中でも、人は誰かを責めたいのだ。自分の問題であるのにかかわらず、他人のことをあれこれ詮索し、問題を転嫁しようとする。しかしもう一人はこれをたしなめてたという。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そしてさらに「主よ、み国で、自分を思い出してください」と憐れみ乞うたという。

確かにルカは、読者に「あなたの人生態度はどちらか」と問いかけているのは間違いではない。終わりに臨んでも、まだ人をののしり続ける罪人の言葉を聞いて、情けない、ふがいないと、感じるだろう。ではもう一人の、ゆるしと憐みを乞う罪人の言葉を聞いて、できれば、せめてそうありたい、と感じるだろう。しかしどうか。「あなたはどちらか」、と問われたら、すぐにはっきりと、こちらと言えるだろうか。実に、右と左とを行き来している自分の心を見るのではないか。

福音書の著者ルカは、読者に同じ「罪人」として、せめて、あの最期まで罵り続けるようなみじめな罪人になるな、ゆるしと憐れみを請う罪人になれ、という勧めをここで行っているのだろうか。仕事ばかりの人生ではなくて、もっとやりたいことをすればよかった。もっと友人や知人に便りをすればよかった、そして何より、身近な人にもっと「ありがとう」と言えばよかった、という悔いの中で、人は晩年を過ごすことになるのだと言われる。悔いのない人生というものは、本当は、言葉だけのものなのだろう。所詮は人間、ののしっても、憐れみを乞うても、示す態度は違えども、ある意味では同じことなのである。自分の発したその言葉は、その人自身に帰っていく。人生で取る人間の態度は、やがてその人自身に帰ってゆくのである。それを象徴するように、ルカは「イエスの右と左」にという言葉で表現するのである。

最初の紹介した文章、「こだわり」について、文章はこう続く。「その男性のこだわりに触れる度に、私はそういった生活に対するこだわりが少ないことに気付かされた。リュックは黒がいい。文字が書かれている洋服はあまり着ない。思いつくこだわりポイントはごくわずか。もしオーダーした料理と提供されたメニューが違ったとしても、交換せず目の前に出されたものを食べるし、物を買う時も費用対効果に納得できそうなものであれば、特に他の商品などと比較することなく目の前の物を購入してしまう。一日のルーティンへのこだわりも特にない。私の意思決定の方法を見て、こだわりが強い男性は『こだわりなさすぎ、どうでもよすぎ』と言う。

その言葉に、実は自分にあった強いこだわりに気付くことができた。それは『こだわらないことへのこだわり』だ。これを包容と呼ぶのか適応と呼ぶのか、目の前の物事へは不満を漏らさずポジティブに向き合いたい。その思いが『こだわらない』という強いこだわりになっていたのだ。そんなことを気付かせてくれた男性と夫婦になり3年目。今日もこだわりが強い私たちの一日は、きっと楽しい」(岩倉千花、empty共同代表)。

主イエスは、罪人の言葉に答えて語られる。「あなたは、今日、わたしと共に、パラダイスにいる」。この救いの約束は、誰に向かって、告げられていると思うだろうか。憐れみを乞うた犯罪人に向かって、主イエスは憐れみを持って答えられたのか。「憐れみ深い者は幸なり、彼らは憐を受けるだろう」のみ言葉の如くである。それでは、「十字架を降りて自分を救え」と主イエスをののしった強盗には、この憐みから放り出され、拒まれているのか。

ここで私たちは、人間そのものについて、深く問われているのだと思う。人間の態度も、個性も、立場も、生まれも、人生経験もひとり一人違うだろう。しかし人間として、神の前にはどうなのか。どちらの犯罪人も、その身に負う十字架は、同じ場所に立っているではないか。どちらの十字架も、上も下もないのである。そしてその真ん中に、同じ地面に、主の十字架は立っており。そこに同じに苦しまれている主がいますのである。この「二人に」、パラダイスの約束は語られているのではないか。