今日はこの教会の「永眠者記念礼拝」である。先ほど、この一年間の召天者の芳名をお読みした。かつて、この礼拝堂に共に集い、祈り、賛美し、共にひとりの主、ひとつのみ言葉に向かった兄弟姉妹たちである。その方々の姿が、今は私たちの目からは見えなくなっていることは、やはり寂しいことである。どんな人も、その人生において繰り返し別離の淋しさを味わって、生きてゆく。その寂しさをどう抱え、どう受け止めたらよいのか、
詩人、中原中也の作品、『春日狂想』という一連の詩に次の言葉がある「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません。愛するものが死んだ時には、それより他に、方法がない。けれどもそれでも、業が深くて、なほもながらふことともなつたら、奉仕の気持に、なることなんです。奉仕の気持に、なることなんです。愛するものは、死んだのですから、たしかにそれは、死んだのですから、もはやどうにも、ならぬのですから、そのもののために、そのもののために、奉仕の気持に、ならなけあならない。奉仕の気持に、ならなけあならない」。
この詩は、詩人の愛児、文也が亡くなった時に創られた作品とされる。子どもの死去に伴って詩人は、まったく魂が抜けたようになったしまったという。この詩で「奉仕の気持ちに」と繰り返し、繰り返し歌われる。それはどんな心なのか。「奉仕」、英語では“Service”
と記される。喫茶店で朝早くに来店すると、「モーニング・サーヴィス」と記されている。これは英語圏の人にとっては奇異に感じるらしい。「お得な朝食」という意味では決してなく、「朝の礼拝」と受け取られる。そう「サーヴィス」とは、まず「礼拝」のことであり、詩人もその意味で、言葉を選んでいるのである。「礼拝の心」、私たちが懐かしい、近しい、親しい人の別離にまことに向き合う時と場があるとしたら、「礼拝」を置いて他にはないだろう。そして「礼拝の心、気持ち」とは何であるかが、深く問われるのである。
今日の聖書の個所は、旧約聖書、箴言を取り上げる。「聖霊降臨節」が過ぎて、今週から「降誕前節」を迎えた。これより主のご降誕、クリスマスを迎える準備の時が始まる、私たちの準備とは、何よりまず聖書に向かうことである。この月の月報に記したが「旧約聖書の出来事を、イエス・キリストの救いに至るまでの救いのみわざのあらわれとして捉え、神の創造のみこころを学びながら、御子の降誕を迎える準備をする時」である。
クリスマスの準備を始めようとするその最初の聖日に、「箴言」が読まれるとはどういうことか。先ほど、「神の創造のみこころを学ぶ」と申し上げた。今日の個所、22節に目を向けたい。「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って」、「その道」とか「いにしえの御業」とは何のことか。これは「天地創造」を指している。つまりこのパラグラフは、「創造物語」の一部なのである。「天地創造」というと私たちは、創世記の冒頭部分の「七日間の創造」、あるいは「エデンの園(アダムとイブ)」の物語を思い起こす。ところが古代のイスラエルには、いくつもの世界の創造の物語が語り伝えられていたらしい。その断片が、例えばイザヤ書の中に見られるし、そして今日の箴言の、このテキストにも伝えられているのである。
箴言の創造物語の一番の特徴は、「最初の被造物(一番最初に造られたもの)」、つまり「創造の初穂」についての言及である。大体、最重要な役柄は一番先に、あるいは一番最後に登場する(どちらかと言えば黒幕)ものだ。兄弟の二番目(次男坊)などは相手にもされない今日の個所で、すべてのものに先立って、真っ先に造られたもの、そこに神の創造の目的、あるいは意図やみこころがあらわされていると考えて差し付けないだろう。この箴言の創造物語の特徴は、世界の創造の目的が語られていることである。
創世記の1章が、「神は『光あれ』と言われた、すると光があった,神は見て良しとされた」という具合に、非常に超越的な表現によって語られるのに対して、このテキスト、例えば27節には、「主が天をその位置に備え/深淵の面に輪を描いて境界とされたとき」、と記される。これは図面にコンパスで円を描き、設計図を作製している技術者の姿を彷彿とさせる。つまり、神が匠のように練れた手を動かし、熟練のわざでこの世界を設計し形づくっている様子が伝えられているのである。今の私たちも、及ばずながらこの世界の有様、森羅万象の見事さ、美しさにしばしば驚嘆するではないか。
その匠の技の最も初めに生み出された者は何か、23節以下「永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って、わたしは生み出されていた云々」。ここで「わたし」とは誰のことであろうか、この最初に造られた「わたし」は、30節「御もとにあって、日々、巧みに、音楽を奏でて主を楽しませ」たという。ある英語の聖書は「わたしは日々彼のすぐそばにいて、彼のお気に入りであり、喜びとなり、いつも彼の前で楽しんだ」と訳している。すぐ側にいて神のみわざを援け、緊張をときほぐし、やわらげ、音楽(BGM)によって喜びと楽しみとを与える役割を担う者とは誰か。
これは「知恵」のことである。ヘブライ語で「ホクマー」、この語は女性名詞で、知恵はどの文化でも、ほぼ「女性」に準えられることが多い。やはりイメージとして知恵は、女性的な印象を受ける。神のみもとに、「知恵」がお側に付き従って、あれこれと世話を焼き、ご機嫌を伺う、という記述に、古いパレスチナの神話の残滓や痕跡を見出せるかもしれない。それでも「知恵」を女性に準えるというのは、時代を超えて説得力を持つのではないか。レントルフという聖書学者はこう記している。「年老いた男のどこにいいところがあろう。年老いた女が蓄えている、長年の間に育んだ深い生活の知恵に比べれば」(『旧約聖書の人間像』)。
この個所は、知恵の役割、そしてその働きについて語ろうとしているのだが、そもそも「知恵」の働きとは何であるのか。人間の歴史において、知恵は人間の生活を豊かにし、便利にし、苦痛を除き、楽にするための様々ものを生み出して来た。箴言の言葉には、当時の最先端技術をほうふつとさせるものも多い。鉱山学、冶金学、建築学等、今でいう所の工業技術も「知恵の発露」として語られるのである。しかし、その逆に、知恵が不正に歪んで用いられるときの禍いや不幸をも共に語るのである。それは現代の核兵器に典型的なように、知恵によって、かえって人間が、大きく苦しむと言う事態を指摘していることに驚かされる。「神なき人間は、知恵ある悪魔を造る」と言われる通りである。人間の知恵は、ややもすれば、自らに大きな悲惨を招くものともなる。
そもそも、知恵の働きとは何か。箴言は語る、「楽を奏して、日々、主を楽しませ、神の造られた地上の人々と共に、楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」ことだというのである。つまり知恵とは、神と人との間に立って、神にも人にも、「楽しみと喜び」を生み出す働きなのだと言う。知恵は金儲けや経済や政治的の駆け引きの道具ではない。神と人とを楽しませ、互いに反目し敵対するような関係にも、そこに和らぎと喜びを吹き込むものだ、というメッセージを、今、私たちはどう聴くだろうか。
絶望的な状況が続くパレスチナ・ガザ。そこで生まれた一編の詩が、いま50以上の言語に翻訳され、世界を駆け巡っている。この詩を書いたのは”言葉による抵抗”を掲げてきたガザの詩人リフアト・アライール氏。「私の物語を伝えてください」と語るその詩は、詩人の死と共に世界に拡散した。“戦争”という暴力を前に、言葉は抵抗の力となりうるのか。作者は昨年12月8日にガザの空爆で死去したという。詩を紹介しよう、若干、意訳してお読みしたい。
「もし私が死ななくてはならないとしたら/あなたは生きて、わたしの物語を語ってくれ。わたしが残したものを売って、少しの布と糸を買い、白い尾を付けて/、凧のように空高くに飛ばしてくれ。そうすればガザの子どもたちが空を見上げて、見るだろう/お別れも言えずに、炎の中にまったく姿を消した父を。たとえつかの間であっても、天使が、愛をよみがえらせてくれるだろう。もしわたしが死ななくてはならないとしたら/それが希望をもたらし、小さなお話になるように」。非条理な死、無残な終わりであっても、それが希望を生み出す源泉となり得る、これを私たちは、主イエスの物語、十字架への歩みによって聞いている、そしてそれを後に生きる子どもたちに、また語り伝えるのである。それがまことの希望となるように祈りつつ。
今日の主日は、降誕前節の初めの聖日である。もうこの聖日からクリスマスを迎える準備が始まるというのである。この日にこの個所が読まれるのは、ちゃんと理由がある。教会は、「キリストは知恵の受肉」と解して来た。キリストは「知恵」がこの世に見えるものとして誕生された。そして知恵の主であるキリストは、神と人とに「楽しみと喜び」をもたらす方なのである。今日のテキストは、創造の初めを語るが、それは同時に神の国、天国のイメージを伝えるものでもある。「楽を奏して、日々、主を楽しませ、神の造られた地上の人々と共に、楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」ところ、これ以上に天国と呼べる場所があるだろうか。永眠者記念礼拝である。知恵の主であるみ子は、音楽を奏でて神と人々とをつなぎとめ、和らぎ楽しむ働きをなされる。ここに私たちの生きて死んで行く慰めがある。