祈祷会・聖書の学び マルコによる福音書1章21~28節

こういう新聞記事に目が留まった。「野球部だった中学時代、怒りっぽい監督が怖くて毎日びくびくしていた。ある日、練習の指示を部員に伝えるよう監督から言われたが、不手際でうまく伝えられなかったことがあった。後で延々怒鳴られた。そこまでされなければならない失敗だったかと、振り返って思う。『監督が怒ってはいけない』と銘打ったスポーツ大会が県内でも近年開かれている。行き過ぎた指導が今もあるとの問題意識からだろう。

職場で指導が行き過ぎればパワハラと見なされる。最近では兵庫県知事にパワハラなどの疑惑が持ち上がり、大きな問題となった。京都府警本部長は部下に『殺すぞ』と発言し事実上更迭された」(10月23日付「北斗星」)。

上司や上役、教師の叱責や懲戒が、パワーハラスメントではないか、という報道を目にする機会が増えた。あるいは店のお客が店員に些細な瑕疵を責め、執拗に謝罪を求めるというカスタマーハラスメントも話題になっている。「叱る」あるいは「苦情を言う」行為が、暴力や暴言とされる事例が伝えられる。

今日の聖書個所は、主イエスが悪霊に対する場面である。ここに登場する悪霊は、悪さをするだけではない、非常に不気味なことをも口にするのである。24節「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。まずこの悪霊は「ナザレのイエス」と主イエスの名前を呼び、仇の如く言い放っている。古代において「名前(本名)を呼ぶ」とは、相手を特定し、名を呼ばれた者を縛り付け、自分の支配下に置こうとする呪いの行為である。だから芸や力を磨き、他と競い合い、それで世渡りをする者は、本名は使わず、しこ名や芸名を用いるのである。

さらにご丁寧に、悪霊は主イエスという方の存在の本質をも鋭く見抜いており、それを口にして、相手の力を封じようとさえするのである。「お前の正体は分かっているぞ、神の聖者さまだ」。確かに、「隠しても駄目だ、お前のことは裏も表も全部お見通しだ、乙に澄ましてやがるが、お前の本当の顔はこうだろう」と喝破されたら、確かに相手はビビることは間違いない。さすがに悪霊ではある。

しかし悪霊の悪霊たるところ、この一語に端的に現れている。「かまわないでくれ」、この言葉は直訳すると「俺とお前は何の関係もないのだぞ」、この言葉は平たく言えば「関係ない」という啖呵である。この言葉がこの国で、当り前のように使われるようになったのは、1970年初頭頃からだという、あるドラマが放映されて、主人公の印象的な台詞として語られた「あっしには関係のないことでござんす」。これが現在では「自己責任」と名前を変えて至る所で独り歩きをしている。本来、「自己責任」とは、自己資産を投機する時に、経済の変動で損失がでても、それは自分の責任ですよ、誰のせいにもできないですよ、という意味合いだった。それが人生や生活、生命にかかわることまでに、拡大されて理解されたのである。こんな乱暴な話はない。

ところが悪霊の言葉は、そういう現代を先取りしているのである。「お前とは関係のない話だろう、それはこいつだけの問題で、この人間の自業自得、自己責任なのだから、放っておくがいいさ」。マルコは「関係ない」という言葉を悪霊の口に乗せて、悪霊の語る言葉として、私たちの前に鋭く問いかけるのである。あなたがたは「関係ない」と言って切り捨てるのか、それでおしまいにするのか。それは自分自身の人生の扉すらも、すべて「関係ない」と閉ざしてしまうことになるのではないか、そもそもナザレのあの方は、主は、「関係ない」と言って生きられたのか。

「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると」、主は「関係ない」という言葉が語られることを、お許しにならなかったという。「黙れ」という非常に強い言葉で制している。「関係ない」という言葉は、それが無意識だとしても、人間と人間の分断を創り出し、お互いの関係をずたずたに引き裂いて行く。だからこそ悪霊の言葉なのである。人間が語るべきでない、言えるとしても、簡単に言ってはならない言葉というものがある。それを古代人は「呪い」と呼んだ。だからこそ「黙れ」なのである。「黙れ」という沈黙命令は、その人の主張を抑え込み、言論の封殺として聞こえるかもしれない。しかし、「呪い」の言葉は、そのまま放って置けば、力を発揮するのである。現代的に言えばPTSDをもたらし、人の心を著しくかき乱し、実際に脳に損傷を与えることが明らかにされている。この個所で、主イエスは悪霊の語る言葉(挑戦的な啖呵)に対して、5節「イエスが、『黙れ、この人から出て行け』とお叱りになると」という具合に、厳しく返答されたことが伝えられている。

この国で生活協同組合運動の先駆者であったキリスト者、賀川豊彦氏の発言は、今日においても深く考えさせる内容を多く含んでいる。1924(大正14)年、世界で初めての「子どもの権利」について謳われた条文でもある「子どもの権利に関するジュネーブ宣言」が国際連盟で採択される3ヶ月前に、賀川は東京深川の児童保護講演会で「6つの子供の権利」を提唱している。彼はこの中の第4項として「子どもは叱られる権利がある」と語っている。この第4項の「叱られる権利」について、彼はこう説明する。「叱ることと怒ることは違うものであって 叱るというのは子どものためを思い之を愛して立派なものに育てようとするが故に行うものである。子どもが健全に発達するためには悪は悪として訂正され、善は善として認められるべき権利を持っているのである」と

人々は、主イエスの発言をどのように聞いたか、22節「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。「権威ある者の教え」とは何か、「子どもが健全に発達するためには悪は悪として訂正され、善は善として認められる」この当たり前の考えが、そのまま表れていることが、「権威」の実態であろう。嘘や偽り、裏表がある時に、人は人を怖れ、びくびくして疑心暗鬼に生きることになる。安心は、あるがままに安らげるところにこそ生まれるであろう。主イエスのみ言葉には、人をまことの安心へと招く優しさがある。「この人が居れば大丈夫だ」と思えることが、「権威」の真の所在なのである。そして、「優しさ」こそが「権威」の別名ではないか。「権威」が圧力となることにこそ、人間の罪が顕わにされているであろう。