祈祷会・聖書の学び 箴言4章

こういう文章がある「分かっちゃいるけど、止められないといったところが、私たちにはあります。行くところまでいかないと引き返せないというところがあるのです。そんな所まで行かずに気が付いて引き返せたら、一番良いのですが、そうはゆかないのです。そして、頭をぶっつけ傷だらけになって初めて目が醒めるのです」(藤木正三『神の風景』)。

新約聖書の中で、旧約がしばしば引用される。自分たちの目の前に展開している出来事を理解するために、彼らは旧約の記述に頼ったのである。神は、出来事を起こされるに、必ず前もって、何らかの啓示を、与えてくれているはずだというのである。

旧約にはいくつもの文書が含まれているが、その中でも、初代教会の人々が、とりわけ注目した書物がいくつかある。ひとつはイザヤ書、ここには「メシア予言」が語られ、キリストが証されている。そしてもう一つが「箴言」なのである。

なぜ箴言が好まれたか、その理由は、「日常性」にある。初代教会の最初期、信仰者たちは世の終わりが切迫しているという感覚の中で生きてきた。しかし段々時がたって、終末が遅延するとの認識の中で、やはり日常が問題になるのである。毎日毎日の生活を整えねばならない。身過ぎ世過ぎをしなければならない。キリスト者として、社会生活、家庭生活をどう営んで行くべきなのか、当然、問われることとなる。するとそういう日常生活の指針を与えるような具体的なみ言葉が、やはり求められる。そして長々とした議論でなく、ノウハウを与えるような簡潔なものが、やはり都合がいい。

今日の個所でも、父が子に諭しを与えるという形式で綴られる。2行づつのみ言葉で、記憶し、反芻し、言い易く、連想し易いように工夫されている。「十戒」もなぜ10ケ条なのか、と言えば、ユダヤ人の間でこういう話が伝えられている。モーセがシナイ山から降りてきた。「同胞諸君、いいニュースと悪いニュースがある。いいニュースは、神の掟を10ケ条まで削れたってことだ。悪いニュースのほうだが、姦淫の罪はどうしても削らせてもらえなかった」。なぜ10なのか。それは手の指の数に合わせたという。指を折りながら、覚え、記憶し、思い起こしたのだという。即ち、子どもへの教育が意識されているだろう。

今日の個所でも、知恵の獲得の理由をこう語っている。3節以下「引用」。自分の語る知恵の言葉は、先祖から伝えられた教えであるという。「先祖伝来の知恵」、この国に失われた最も大きいものがそれであろう。戦争の記憶が、伝承されないことは、その再来を招く。

潜伏キリシタンの「オラシオ」が話題に上るが、それは元々ラテン語の典礼文、祈祷文であったが、それが長期間、伝承されるうちに、変質して来る。先祖の名前や土着の神の名も唱えられるようになり、伝承が膨らんでいく。もっともユダヤ・キリスト教も同じである。パウロが語る福音伝承など、その典型的な形を保っている。「わたしがあなたがたに告げたことは、わたしもまた受けたものです」。伝えられた伝承を繰り返し、そしてそこに自分の信仰の確信に基づく言葉を付加する、それが聖書の伝承の方法である。

フィリピ2章の「キリスト賛歌」は、古代教会の讃美歌としても用いられた伝承であるが、この伝えられた章句に、パウロは一言、自分の言葉を付与している。どれが「パウロ自身の言葉」であろうか。今日の礼拝説教も、同様なことを行っている。古くからの伝承を反芻し、そこに説教者の意味付け(自分が読み取っの信仰の言葉)を付与する。

箴言はそういう作業を、家庭を背景に物語る。教育の力は第一に、家庭にあり、子どもの教育は、家々(個別だが、同じ神の救いの伝承を共有するイスラエルの家)に伝わる知恵の言葉を子どもたちに伝承すること。そこに新しい、今の伝承を付与する営みであった。教育の第一は家庭にあり、そして古からの伝承による、というユダヤ人の方法を、私たちはどう考えるか。

4章には、ユダヤの日常の風景が垣間見られるが、8~9節は、結婚式の一場面を切り取っているだろう。婚宴に招かれた客の、冷やかしと祝福の言葉と、儀礼、花嫁が花婿の頭に、生花で作った冠をささげる、が色を添えている。

後半は、古代の知恵の書によく見られる形式が用いられている。「悪の道」と「知恵の道」が相互に並べられて語られていく。主イエスの「幸の教え」は、ルカ福音書がより古い伝承とみなされているが、いくつかの「幸なるかな」の言葉の後に、「禍なるかな」の言葉が連ねられている。

ここでの「悪」に対する洞察は、当時の一般的、通俗的なものだが、16、17節「背信のパン、不法の酒」という表現は、生々しい。そして「悪」と「眠り」についての洞察は、巧みなものがある。

一方「知恵」の効用についての洞察も興味深い。「知恵を心の奥に隠して置け(知恵をとうとうと他に語るのは、いやらしいものだ)。そうすれば体全体の健やかさを保つであろう。守るならば自分のはらわた(感情と思考の座)。一時の感情に振り回されないことも、知恵の働き」。知恵と健康のつながりが語られているが、確かにそうであろう。

わかっちゃいるけどやめられないのである。愚かでありますし、勿論それで良いわけはありませんが、事実はそうなのですから、行くところまで行ったとしても、別に駄目だ都いうわけでもありますまい。恐らくそれは、人間が人間となってゆく為の、悲しい手続きでありましょう。27節の「右にも左にも」は、頭をぶつけ傷だらけになった人の言葉でもあろう。伝承の背後のあるものは、やはりそれである。