「キリストは幾つにも」コリントの信徒への手紙一1章10~17節

二年ほど前に、時の首相が所信表明演説で一つの詩を引用した。「私が両手をひろげても、

お空はちっとも飛べないが、飛べる小鳥は私のように、地面を速く走れない。私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、あの鳴る鈴は私のように、たくさんな唄は知らないよ。鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」。よく知られた金子みすゞの作品である。この詩は約1世紀前、本州の最西端の地方都市で綴られたものである。

「みんなちがって、みんないい」新しい時代の日本に求められるのは、多様性であります。みんなが横並び、画一的な社会システムの在り方を、根本から見直していく必要があります。多様性を認め合い、全ての人がその個性を活かすことができる。そうした社会を創ることで、少子高齢化という大きな壁も、必ずや克服できるはずです」。

今年、オリパラのお祭り騒ぎとも言える一連の動きの中にあって、この国に「ダイバーシティ&インクルージョン」というスローガンが、再び駆け巡っている。「多様性と配慮」、あるいは「配慮ある多様性」と訳すことができるだろう。この言葉を、ある高校生は次のように説明したという。「歩くのがちょっとゆっくりな人とは、自分もゆっくり歩くじゃないですか。そういうことだと思うんです」と。歩く速度は、人それぞれである。今までは、皆と歩調を合わせよ、とか皆に遅れるな、と強いられることが多かった。ところが逆に、歩くのがゆっくりな人と一緒に歩くために、歩みの速い人もちょっとゆっくり歩こう、それが「インクルージョン=配慮」だというのである。

ところがこれに対して次のような意見も聞かれる。「多様性と共同性は、相性が悪い」。

なぜなら、多様化は世の中を細分化し、分断し、生きづらい人を増やす方向にも働きうるからだというのである。多様化とは「みんなちがう」ということ。極端にいえば、異国人同士の集団のようなものだ。「みんないい」とその存在を認めるのはいいが、どうやって「共同・協働」するのかと言えば、簡単でないことは容易に想像がつく。たとえば家族旅行。

父は海外に行きたい、母は温泉に行きたい、姉は遊園地に行きたい、自分はどこにも行きたくない、とする。さて、「みんなちがって、みんないい」から導かれる結論は?バラバラにそれぞれ行きたいところに行けばいいのか。それでは共同性は成り立たない。多様性は、自動的には共同性には至らない。むしろ、多様性は本来、共同性に反している。多様化とは、つながりにくい社会になることでもある。

今日はコリントの信徒への手紙一1章から話をする。ここでパウロは、コリントの教会に生じているさまざまな具体的な問題について、一つひとつ取り上げて答える、という形式で手紙を記している。コリントの教会を訪問できないでいるパウロに、いろいろ教会内で生じてきた問題について、どうしたらよいかを尋ねた人がいたのである。今日の個所では「クロエの家の者から知らされた」と語っている。そしてこの教会で起こっていた問題は、現代でも人間の集まる所では、等しく生じてくる事柄ばかりなのである。今日の個所は、手紙の冒頭部分だが、ここに記される問題は、やはりコリントの教会の一番の難問だったのだろう。コリントという町は、2つの良港を抱えた港湾都市であり、流通の要衝であったと言われるが、現代のギリシャでも同じような状況にあると言われる。やはり「都市」というものは、時代を超えて同じ課題を背負うことになるのだろうか。

11節「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました」。「クロエ」とは女性の名前である。奴隷や召し使いを抱えて家業を営んでいるというニュアンスであり、この豊かな商業都市にあって、手広く商売をするクリスト者、女性経営者がいたのだろう。このこともまたコリントという町の現実を如実に伝えるものであろう。召し使い、あるいは奴隷のひとりが、教会の現状をパウロに訴え、明らかにしたということだが、女主人の命を受けているのは間違いない。「会社経営」においてならば、致命的な状況が生じているとの危機感の発露であろうか。

教会に「争い」があるという。この用語を「喧嘩」と訳す翻訳者もいるが、「紛争は議論、喧嘩の意味であって、分離までには至らず、分離の前提をなしている事柄である」等と説明されている。分裂の一歩手前である。どんな争いか。12節「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです」。どこにでもあるような光景である。教会員が小さなグループ、派閥や会派という程ではないにしても、を作り、気の合う仲間内だけで親しく交わり、よろしくやっている、という雰囲気であろうか。

「わたしは誰それにつく」というのだが、「パウロ」は素よりコリントの教会の創設者である。「アポロ」はアレキサンドリア出身の伝道者であり、教養無双で非常な雄弁家として知られていた。また「ケファ」は、主イエスの一番弟子シモン・ペトロのことである。「キリストにつく」というのは、キリストとの霊的合一を強調する神秘主義者の集まりであったろう。それぞれ自分が頼りとするものの周りに、人は集まるものである。人は自分の見たいものしか、見ようとしない。そしてこの時代の、今もそうだが、グループの結束を強める働きは、何より一緒に食事をすることである。先日も、国会議員が数名で会食したというニュースが伝えられた。主催した政治家は、「黙食した」というが、それで楽しいかどうかはともかく、やはり一緒に飯を食べねば、結束を保てぬのであろう。

コリントの教会の何が問題なのか。初代教会の礼拝は、何より集まった人が食事を共にする愛餐に他ならなかった。つまり仲のいいグループ同士に分かれて、勝手にてんでんばらばらに食事をしているような状況では、皆が心を合わせ、ひとつになって共に祈り、賛美を合わせ、共に主のみ言葉に聞く、という塩梅にはならないのである。他の事柄ならばらけることもあろう。しかし礼拝において、てんでんばらばら、皆、自分勝手に語り、勝手に信じ、勝手におしゃべりしている、これはもはや教会ではなく烏合の衆である。そればかりか、軽んじられ、どのグループにも招かれない人、交わりを結ぶ価値なしと、無視される者まで出て来る始末である。

結局、コリントの教会の問題の根は、ただ人間に、人間の知恵に、そして人間の地位や働きにのみ、人々の目が集中しているという事実である。そして人間へのこだわりは、その力や強さ、地位や優秀さばかりを追い求めることになる。

こんな文章を読んだ。「うらやむ」と「ねたむ」の違いを、イラストレーターの汐街(しおまち)コナさんはこう説明する。「うらやむ=自分をその人の位置まで高めたいと思う」「ねたむ=その人を自分の位置まで落としたいと思う」。高校時代に国語教諭から学んだという。著書「『死ぬくらいなら会社辞めれば』ができない理由」で記す。スポーツができる人を見て「うらやましい。自分も頑張ろう」と思うか。「けがをしてくれたらいいのに」とねたむかネットのSNS(会員制交流サイト)が発達し、格差社会が進み、他人の芝生がより青く見えるようだ。他人をねたむ人が多くなっているように思う(8月11日付「金口木舌」)。

教会は、他の誰かを「ねたむ」ことでは成り立たない。そうかといって「うらやむ」こと「自分をその人の位置まで高めたいと思う」ことによっても,立てられるものでもない。「主イエスの位置にまで、自分を高める」などとは、おこがましくて口が裂けても言えないだろう。パウロは最初からこの個所に至るまで、「私たちの主イエス・キリスト」と十数回繰り返し、章の末尾に「キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように」と警告を発している。キリストの前には、人間の「ねたみ」も「うらやみ」も、まったく問題にならない。神の独り子が、この世の最も低いところに降られて、当たり前のひとりの人として生きられた。そして最期は十字架に付けられ、血を流し、苦しんで死なれた。私たちはどんな人間であろうと、どんな立場にあろうと、どんな能力や資質があろうと、例外なく、この十字架の主の前にたっているのである。その十字架で苦しまれる主につながらないなら、私たちの意味も価値も働きもすべて空しいのである。