祈祷会・聖書の学び エズラ記7章11~28節

1964年に開催された東京オリンピックは、敗戦で壊滅したこの国が、世界の国々と肩を並べる「舞台」に戻ってきたことを宣言する「復興五輪」と呼ぶべきイベントであった。この祭典に、国中が湧きたち、この国の誰もが、何らかのかたちでこの催しに参加していたと言えるだろう。この時代は、高度経済成長の真っ只中であり、名神、首都高、新幹線など、その後の経済成長を支えるインフラが、数多く建設され、今も遺産として残されている。しかし一方で高度経済成長は、深刻な公害問題も生みだすという負の遺産も生んできた。空気や河川、湖や海の汚染、光化学スモッグ、水俣病や四日市ぜんそくなどの公害病も問題になったのである。

今年開催の東京オリンピック2020もまた「復興五輪」の名が冠せられて、誘致されたといういきさつを持つ。今回の催しについて、ある新聞はこう記している。開催の目的は、大震災当時の各国の支援に感謝の気持ちを込めて、壊滅的な被害をここまで克服した力を訴え、同時に原発事故の過酷さを伝えていくことではないか。3・11を語り継ぐ営みは開催国の役割でもある。「復興」というひとくくりの言葉で片付けられない、光と影、明と暗を見つめ直すきっかけとしたい(宮崎日日新聞7月23日付社説)。

この世の物事には、必ず表と裏、光と影、その両面が存在する。そして物事を正しく把握し、理解し、真実に役立てるためには、そのどちらにも向かい合う必要があることは、言うまでもないことである。

今回の聖書の学びは、エズラ書に目を留める。旧約の歴代誌から続くエズラ記、ネヘミヤ記は、元々、ひとまとまりの文書であったと推定されている。歴代誌の末尾の記述は、エズラ記の冒頭の文章と同一であることが、それを物語っている。まずエズラ記1章~5章までは、紀元前538年のバビロン捕囚からの解放から、前516年のエルサレム神殿(第二神殿)建設までの歴史記述であり、7章以下からネヘミヤ記に至る記述には、前458年から前433年にわたるエズラ、ネヘミヤの宗教改革の次第が記されている。即ち、バビロン捕囚後の新しいイスラエル・ユダヤの歩みが記されているのである。

エズラ記7章11節から9章15節は、聖書学者たちは、一人称で記されるところから、エズラ自身の「追想録」ではないか、と推定している。彼はそして今日の当該箇所の大部分は、バビロニアを滅ぼしたペルシア帝国の王アルタクセルクセスが、エズラに宛てて記した「王の親書」が主な内容となっている。この親書の命に従って、エズラは祖国エルサレムに帰還して行くのである。

彼は祭司としてではなく、イスラエルの律法に詳しい書記官と位置付けられている(6節)。つまり、ペルシアの行政官(役人)に任じられていたということである。12節以下のアルタクセルクセス王の親書には、「天にいます神の律法の書記官」と記されている。即ち、ユダヤ関係担当者として、ペルシア王から派遣されて、公式にイスラエルを訪問する訪問団の代表としての務めを担ったわけである。

アケメネス朝ペルシア帝国の諸王は、ゾロアスター教(拝火教)を信仰し、保護していたが、他の宗教に対しても寛容の姿勢を示した。それはキュロス2世がバビロンを征服したときに、ユダヤ人をバビロン捕囚から解放し、ユダヤ教の信仰の自由をその後も認めたことなどに表れている。同じように他民族の文化や生活習慣についても寛容であったので、領内では様々な言語と文字が使用されていた。それは周辺諸国の諸文化に対して寛容な態度をとることで、統治のしやすさを見込んだのであろう。政策の一環として、祭司エズラも、帝国の役人として抜擢をされたということである。

王の親書には、大体、次のような内容が記されている。①神の律法に従ってユダとエルサレムの事情調査をすること(14節)、②エルサレム神殿のために献金を持参し(15、16節)、供え物を献納すること(17節)、③ユーフラテス西方の役人に対する神殿への銀、小麦、葡萄酒、油、塩の供給命令(22、23節)、④神殿に仕える者の免税(24節)、⑤司令官、裁判官を任命すること(25、26節)が記されている。まさにペルシアの姿勢をよく伝えている内容である。武力だけでは統治は出来ない。

「親書」の内容はつまるところ、宗主国としてのペルシアは、イスラエルの律法、祭儀をよく知っており、尊重するとの告知をしているのである。書記官の任務は、宗主国と属国の間の関係を、良好に保つことにあり、この親書を作成するのに、祭司エズラが書記官として深く関与していたのであろうと推測できるのである。

しかし、どのようにして彼が書記官の立場に就いたのか、詳細は分からないが、「神なる主の御手の加護」があったと、6節に記されていることに留意したい。彼が祖国に帰還したのは、ソロモン王が創建した、最初のエルサレム神殿が破壊されてから130年後、キュロス王の帰国・神殿再建命令が発布されてから80年後、そして、第二神殿完成からおよそ60年後のことである。少なからずの時間が経過している。特にキュロスによる祖国帰還の許可が出されてから、ほぼ1世紀近くの時を経ている。

恐らく、祖国帰還が許されても、ユダヤ人たちは、その後、随分長い間バビロンに留まり、中々祖国に帰ろうとしなかったのではないか。捕囚地バビロンでは、ユダヤの民の生活のための生活の資やインフラが、十分に整えられており、それを捨ててまで荒廃したままのユダ、エルサレムに敢えて戻ろうとしなかったということである。おそらくバビロン捕囚での、一番の課題は、ユダの民の、後ろ向きの姿勢をどうするかであっただろう。人はまだ見ない未来より、目の前の幸いに、心を向けるのである。現状維持は悪いことではないが、ともすれば、自分たちの誇りやアイデンティティを失う原動力となる。

敗戦と祖国の喪失という荒れ野を経験することで、ユダの人々は、どこに自分たちの礎があるかを悟ったのである。神ヤーウェから目を背けては、イスラエルはないも同然なのである。目に見える国だけでなく、こころの真を失おうとしている時代に、「神なる主の御手の加護」が下される。それがエズラのエルサレムへの帰還であった。「復興」とは何であるか、その内実が厳しく問われているのである。