祈祷会・聖書の学び エゼキエル書11章14~21節

この国で長く奉仕されたとある宣教師は、高原の湖畔に別荘を構え、夏季休暇の度にそこに滞在するのが常であった。「別荘」と聞くと、私たちには贅沢な暮らしを連想させられるが、当人は、「ささやかなコテージ」なのだと言う。機会を得てそこを訪れると、成程「ささやか」である。電気ガス水道等の設備は、必要最小限、あるやなしやの風情である。風呂すらも設置されていない。「湖で水浴びすれば事足れり」と何気なく言う。ないないづくしの暮らしぶりの質素さとは対照的に、窓から眺める風景の雄大な美しさには、しばし時を忘れて見とれるほどであった。「いつもの便利な生活と正反対の生活をするために、ここがあるのです」。

エゼキエルは「バビロン捕囚」期の預言者である。南王国ユダの主だった人々は、根こぎされるようにバビロンに連行され、異国の地で暮らすよう強制された。ところが若干の下々の住民たちは、国の滅亡後も、エルサレムに住むことを許されたようだ。町の大方は廃墟であったろうが、廃材を利用して、バラックのような住まいを建て、細々と生活を営んだことであろう。それでも何年か過ぎれば、そのような生活も軌道に乗って生活の地盤が整えられてくる。するとそこで生活する既得権が生じるのである。

今日の聖書個所には、敗戦後のエルサレムに暮らした人々の生の声が伝えられている。15節「人の子よ、エルサレムの住民は、あなたの兄弟たち、すなわちあなたの親族である兄弟たち、およびイスラエルの家のすべての者に対して言っている。『主から遠く離れておれ。この土地は我々の所有地として与えられている。』」つまり、「捕囚民」に対して、自分たちの正当な居住権を訴えているのである。とりわけ「主から遠く離れておれ」、厳密に訳せば「あなた方は、(捕囚によって)ヤーウェ(神)から遠く離れてしまった(のだから居住の権利は喪失したも同然である)」。

かつての同胞、同じ国の民からこう告げられたら、捕囚民の心は、大きな失望と嘆きに満たされたことであろう。もう自分たちは、自分たちの神から切り離されたのだ、このバビロンに根を下ろし、この都に埋没して生きるしか道はないだろう。数百年前に、北王国の捕囚民は、それで消失する運命をたどったのである。ここに預言者エゼキエルは、ユダの一番の危機を見て取る。

「それゆえ、あなたは言わねばならない。主なる神はこう言われる。『確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった。』」この章句に「ささやかな」という表現がみられるが、文字通りには「わずかばかりの」という意味あいの言葉である。この「わずか」には2通りの意味合いを読み取ることができよう。ひとつは時間的な理解で「わずかの期間」と訳すことができる。即ち、主なる神を異教の地、バビロンで礼拝しなければならない期間は、「ごくわずか」の間であり、つかの間の時が過ぎれば、またもとのように、エルサレムの都で神殿を再興し、礼拝を再開することができる、というのである。他方、空間的に理解すれば「小さな聖所」と訳すこともできる。その理解に従えば、「かつてのソロモン神殿のような壮麗な神殿はもはや存在しないが、神ご自身が、小さなささやかな聖所となって、ここバビロンの都においても、あなたがたと共に歩んでくださる」という意味になるだろうか。新共同訳は、後者の解釈を踏まえて訳出しているようである。

ソロモンがエルサレムに神殿を建設する以前は、聖書の民は主なる神の神殿を持つことはなく、契約の櫃を「幕屋」に納めて、あちらこちらを放浪したことが知られている。もともと聖書の民は「神殿」という一つ所に固定された聖所で礼拝したのではなく、自分たちの歩む所に、神もまた歩んでくださり、歩みを共にするところで神を拝するというのが、元々の信仰のかたちであった。「ささやかな聖所」という言い方は、まさにこの「幕屋」時代の記憶を呼び覚まそうとする表現なのであると言えるだろう。イスラエルは、今や自分たちの国を持たない流浪の民に立ち戻ったのである。それは再び「幕屋」に立ち戻って、信仰の歩みを始めることになる。

「ささやかな神殿」という言葉は、やはり主イエスの宣教の歩みを思い起さずにはおれないだろう。主はガリラヤ周辺のさまざまな地域を、自分の方から巡回されて、悪霊を祓い、病の癒しと罪の赦しを告知し、人々共に飲み食いされた。それが「神の国」の宣教であった。「神の国」は、人々のすぐ傍に、手の届くところにある。エゼキエルの言う「ささやかな聖所」のようになって、近づいてくださったのである。壮麗なエルサレム神殿から排除されて、祝福を奪われた「罪人」、一人ひとりの傍らにそっと寄り添い、その悲しみと憂いを引き受け、執り成し、共に歩んでくださったのである。それこそ「ささやかな聖所」ではないか。そこでこそ私たちは、神の愛とつながれて、礼拝することができるようになるのではないか。

子どもの教会(教会学校)での夏の恒例行事は、やはりキャンプであろう。昔はテント泊で飯盒炊爨、早天礼拝、山登り、キャンプ・ファイアーというようなプログラムが定番であったが、時代の変遷と共に、少子化の影響もあり、今では大分、様変わりした。さらに昨今の「コロナ禍」で、皆が共に寝泊まりし、共に会食することすらもはばかられるという状況が生じたのは、実に残念なことである。

なぜ「教会キャンプ」をするのか、について、ひとつに神の創造された大自然の中でひと時を過ごし、神のみわざの大きさ、素晴らしさにふれるという意味があるだろう。そればかりでなく、今日のテキストの預言者の言葉のように、日曜日毎に礼拝を守る「教会」を離れて、たとえ辺鄙な人知れず寂しいところにあったとしても、どこであれそこは神の造られた世界であって、神自らが「ささやかな聖所」となってくださることを知るためではないだろうか。

確かに「コロナ禍」は、親しい人々すらも分断する、共に生きることへのある種の「挑戦」であったかもしれない。しかしたとえ「ひとり」の生活においても、神はそのひとりのために「ささやかな聖所」となってくださることを、学ぶことのできる機会だったかもしれない。未だに、コロナ禍は、過去の事柄ではないが、「ささやかな聖所」となってくださる神が、この禍からも導き出してくださることを、心深く覚えたい。神はエジプト、そしてバビロンから私たちを連れ帰ってくださる方なのである。