祈祷会・聖書の学び エゼキエル書34章17~31節

教会の家庭集会でお邪魔したお宅の壁に、一幅のタピストリーがさりげなく掲げられていた。イギリスの手織物だという。田園の石垣の囲いの中に、のどかに草を食む羊たちの姿が描かれている。その中の一匹の羊が、あおむけに寝転がっていて天を向いているのはどうしたことか、昼寝をしている呑気な羊もいるものだと思ったが、実はそうではない。羊の習性を巧みに描いているらしい。羊という動物は、突発事態が起こり、驚いたり身の危険を感じたりする時、典型的なのは、狼などの野獣に襲われると、敏捷に危険から逃れることができず、却ってパニックに陥って、身体を硬直させひっくり返って動けなくなってしまうのだという。そのままショック状態で死に至ることもあるという。タピストリーがこうした光景を描いているところを見ると、これは決して珍しいことではなく、牧羊の現場では極めてありふれたことなのだろう。

では、羊がパニックに陥ってひっくり返った時、羊飼いはどうするか、直ぐに羊のそばに飛んで行って、手足や身体をさすり、全身にマッサージを施すのだという。そうしないとショック死してしまうかも知れない。羊飼いの機敏な助けで、やがて羊はパニックが収まり、立ち上がり、群れに戻って行く。羊にとって羊飼いなしには、ひと時も生きられないのである。そういう人間と羊の関係、さらには神と人との関係が、聖書にはアレゴリー(比喩)としてここかしこに語られている。

今日の聖書個所は、エゼキエル書34章である。この長大な預言書の中でも、比較的よく知られている個所であり、聖書時代の人々にも、周知で馴染み深い預言の言葉であったろう。「羊と羊の群れ」、そして「羊飼い」のことが話題にされているが、聖書の世界の原風景とも言うべき情景であろう。聖書の人々にとって、これ以上、身近なものはないというくらい、幼いころから慣れ親しんだ生活風景である。羊飼いに丹念に世話をされて、羊の群れがのんびり草を食み、ゆるりと泉の水を飲み、安心して養われている。そういう風景こそ、平和と繁栄の象徴である。

ところがエゼキエルの語る田園風景は、そういう「平和と繁栄」とは真逆の、いわば「収奪と暴力」の光景なのである。羊飼いは、自分の腹を肥やすためにだけに行動し、群れの世話を放棄し、過酷に支配し、傷つき、弱った羊を虐待までしているのである。主イエスがヨハネ福音書で語っている「悪い羊飼い」も情けないが、預言者が語る羊飼いの酷さはどうか。主イエスの語るところは、単なる作り話ではなく、実際にそのような不適格な羊飼いがいたことが、この預言者の言葉から知れるのである。譬話は、「喩え」ではあるけれど、現実を見事に切り取っていることを知らされるのである。

さらに、そのように情けない羊飼いによって導かれた羊たちもまた、牧草地と水場を汚し、与えられた美しく豊かな牧場を荒廃させ、仲間の羊をも意地悪に扱うのである。この預言者の洞察の鋭さは、悪い羊飼いに準えられたイスラエル・ユダの支配者、統治者たちに牧された羊たち、即ち民衆もまた馴化されて、悪に染まる、というところにあるだろう。単に加害者、被害者という二分法によって事態を単純化しない、勧善懲悪的な思考に平板化しない鋭さを持っていると言える。

エゼキエルの語るこの物話は、喩え話であり、捕囚の憂き目にあった南王国、ユダの社会の現実を、羊とその群れ、そして羊飼いに託して語っていると説明される。この喩えを聞いたユダの人々は、どんな気持ちだったであろうか。イスラエルの王国時代、繁栄に酔う時代、預言者の辛辣な言葉は、全く為政者の心に響かず、一般人の心に届かなかったようだ。誰しも自分自身の悪には目を塞ぎたいものだ。上の者たちが厚顔ならば、下々の者たちも無恥になろうというものである。その時には、預言者の言葉に無関心となり、聞かないふりができるかもしれない。しかしまことの神の預言者の言葉は、いつか真実となり出来事となるのである。そうなった時、人はどうするのか。

このエゼキエルの託宣を聞くのは、捕囚の中にある人々たちである。彼らはこの預言者の激しい言葉を、どのように聞いたであろうか。そういう中にあっても、なお厚顔無恥に振舞い続けることができるのか。はやり、「捕囚」という我とわが身の現在の苦難と引き比べて、自らの苦しみと祖国の崩壊が、起こるべくして起きたことを悟って、深く哀しみ、嘆いたのではないか。

エゼキエルのこの個所のみ言葉を目にすると、私たちは、必ずある有名な譬話を思い起こす。これよりもずっと短いが、物語要素をそのまま凝縮したような、印象深い、小さな物語。そしてその小さな譬話を聞いた人は、エゼキエルのこの個所をすぐに思い浮かべたことであろう。それは主イエスによって語られた「いなくなった羊」の譬である。

主イエスの「いなくなった羊」の譬は、百匹の羊の群れの内、一匹がいなくなり、失われたと語られる。では、どうしてその一匹はいなくなり、失われたのか。その理由は何か。主イエスは短い譬の中では、その理由を語ってはいない。だから私たちは、いろいろな想像を働かせて、理由付けを試みる。例えば「その一匹はわがままで、自分勝手な行動をしたのだ。群れからはぐれたら、野獣に襲われるかもしれず、生命の保証はない。本当なら自己責任で片付けられる話だ」、と。

エゼキエルは「失われた羊」についてこう語るのである。20節以下「主なる神は彼らにこう言われる。わたし自身が、肥えた羊とやせた羊の間を裁く。お前たちは、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった」。つまり失われた羊は、他の大勢の強い羊によって、「外に追いやられた」ゆえに、失われたというのである。おそらく主イエスは、エゼキエルのこの預言を念頭に思い浮かべながら、ご自分の譬を語っているのだろう。

預言者は、「外に追いやられた」羊について、語っている。彼らのために、「ひとりの牧者」が起こされ、遣わされるという。25節「わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。悪い獣をこの土地から断ち、彼らが荒れ野においても安んじて住み、森の中でも眠れるようにする」のだという。さらに捕囚によって異国の地バビロンで生活するのを余儀なくされた人々に、「お前たちはわたしの群れ、わたしの牧草地の群れである。お前たちは人間であり、わたしはお前たちの神である」(31節)と主なる神は言われるのである。時代を越えて、エゼキエルと主イエスという神の人によって、それぞれに語られた小さな譬話が、時代を越えて、ひとつにつながって、現在の私たちに向かって語りかけているのである。