「抱きかかえて」使徒言行録20章7~12節

かつて、既にベテランの域にある個性派俳優二人が対談をしているのを見た。こんなやり取りをしている。「ご趣味は?」、ぶっきらぼうに「焚き火、おたくは?」、すると「夏は昼寝、冬はうたた寝」。この二人の癖のある発言に、さもありなん、と感じさせられた。蒸し暑い日々が続くようになったが、皆さんは、昼寝をする習慣はあるか。昼ご飯を食べると、瞼が重くなってくる、何かの雑誌に「昼寝は健康に悪い!」という警句が書かれていて「ぎょっ」とさせられた。その内容を読むと、「長時間の昼寝は、夜の睡眠の熟睡をさまたげるので、高血圧や糖尿病、肥満、うつ病、不安と結び付けられる」というのである。

電車やバス、公共の交通機関や公の場所でのウトウト、こくりこくり、授業中の学生や生徒の居眠り、そして国会や地方議会での議員さんたちの居眠り、これらの光景は、この国の日常の有様として、よく垣間見る光景である。どうも「居眠り」はこの国の「文化」らしいのだ。この国の「居眠り」について、次のような説明がなされている「ヨーロッパの状況を考えると、日本は、『安心して居眠りをできる』安心安全な恵まれた国、ということになるのでしょうか?あるいは、授業料を払っているのに眠って平気な『お金におおらかな』国民性ということでしょうか?あるヨーロッパの新聞に掲載された、日本の“サラリーマン”が電車内で眠りこける光景に対するコメントが面白いです。『日本では家がウサギ小屋のように狭くてプライベートな空間がなく、まともなベッドルームもないために、電車の中ぐらいしか寝るところがないのだ』」。これはちょっと、待ってほしい!

さて今日の聖書個所、使徒言行録20章の逸話である。ある青年が居眠りをして階下に落ちた、という事件が語られている。「居眠り」というのは、この国では日常茶飯事、あたりまえの風景だが、ヘレニズム世界では一大事だったのだろう。この出来事のおかげで、失態を演じた青年は、「エウティコ」というその名を、皆から憶えられ、後世まで語り伝えられる名誉(恥?)を被ることになる。当時の教会の間でも、これは大事件だったのであろう。但し、この出来事は、この国の昼間の「居眠り」という訳ではない。

これが起ったのは「週の初めの日」つまり日曜日のことである。ユダヤ教の安息日は土曜日であり、週の最後の日である。初代教会の人々は、主イエスの復活の日を記念して、ユダヤ教徒とは異なり日曜日に礼拝を守ったのである。ただ日曜日は休みの日ではない。週の始め、最初のお勤めがある日である。多くの労働者は、朝早くから雇い主(パトロン)の所に行って、彼の意向を細大漏らさず聞き取り、その意に適うように、どう振る舞うかを算段し、己の仕事を始めるのである。おそらく一週間の中で最も忙しい日である。ようやくその勤めが終わって、日の暮れる前頃に、皆が教会に集まって来る。一日の疲れを抱えて、疲れ切った体を引きずって教会にやって来る人も多かったろう。それだけ礼拝に集うには内と外との戦いがあったと想像される。そして、彼らは日曜日の礼拝を厳守し、時に翌明け方まで、礼拝をおこなっていたという。夜明けまで賛美の歌声が響いていたことが伝えられている。こんなに多忙で、しかも疲れているのに、礼拝どころではない、というところだろう。ところが彼らは、疲れ切っているからこそ、礼拝が必要だというかのように、主日礼拝に固執したのである。皆さんは、どう考えるだろうか。

このエウティコ青年、3階の窓に腰を掛けてパウロ先生の話を聞いていたというのである。礼拝の会場は大勢が集まりやすいようにと、屋上のような広いテラスだったのか、たくさんの人でひしめいていたから、前が良く見えないので天井桟敷に上った、と推測されるが、若者らしいと言うか、若気の至りというか、若者は時に突飛で、怖いもの知らずの行動をとるものである。「パウロの話が長々と続くので」、これはルカの実感がこもっている。かの使徒は話の超長い人だったのか。コリント書簡でも、教会の人々が、「彼の手紙は重々しいが、話はつまらない」と評されているから、これは「話出すとやたらに長い」という嫌味なのだろう。よく「三分で言えないことは、一時間でも言えない」というではないか。

以前、アメリカの開拓時代の古い教会を見学したことがある。升席のような家族席が設けられていて、家族はその一角に座って礼拝を守る。当時、礼拝の説教時間は2時間を超えたという。娯楽の乏しい中、礼拝もまた家族団らんのひと時?娯楽の一部だったのか。よく見ると講壇に5メートルほどの細長い棒,柳むちが立てかけてある。何のためのものかと問えば、説教者が居眠りしている人をつついて起こすのだという。礼拝中、居眠りをする人が居たことの証である。つつくより目を覚まさせるのには、より効果的な方法がある。眠っているその当人のことを話題にするのである。人は自分のことが話されているのに、うかうか寝ていることはできない。

集会は夜中まで続いた。パウロとの今生の別れ、お名残り惜しやの雰囲気もあったのだだろう。皆が集まっている会場の部屋には、多くの灯が点してあった、という。これは普通では考えられないことだ。大体、灯りは特別に贅沢なもので、普通の家なら、居間にともされるひとつの灯がせいぜいであり、日没ともなれば、家族の者はみな就寝するから、直ぐに灯りは消されるのである。ところが夜中まで煌々と明かりが灯っている、というのは、この使徒の送別、という意味合いが強かったのであろう。灯りは豊かさと繁栄、そして都市の象徴である。現代も夜の地上を宇宙から見たら、明るく輝くのは都市の景観である。この集会が行われたのは、エーゲ海岸沿いのトロアス、「トロイの木馬」で知られるが(トロイア遺跡が残る、スパルタと戦ったかの町は、内陸に築かれたポリスであるが)、ダーダネルス海峡のほぼ入り口に位置し、古代より戦略的な要衝であり、ローマ時代にはアジアとヨーロッパを結ぶ重要な港が設けられていた。古い港湾都市で、東西物流の拠点でもあったろう。だからこそ深夜まで、煌々と明かりをともして集会を開催する贅沢もできたのである。

そういう都会の賑わいの中で(教会もまたそうである)、ひとりの青年に悲劇が起こる。夜も昼のようなきらびやかさと、多くの人々の人いきれの中に、しかも礼拝の最中に、転落事故が起こる。この若者、落ちたショックでしばらくの間、呼吸が止まってしまったのかもしれない。パウロが抱き起したので息を吹き返したのか。しかし、ここでパウロが口にしたとされる言葉は象徴的である。「騒ぐな、まだ生きている」。正確には原文に「まだ」という言葉はない。「彼の中に、彼の息(プシュケー)がある」。高い所から落ちたが、まあでも無事でよかったね、というような言葉ではない。これは「ここにこそ命がある」という宣言である。

人々の集まる礼拝の部屋には、明るく温かな明かりが灯されている。そして礼拝とはパン裂きである。ともにひとつの家族として、ひとつのパンを食べるのである。そこに主のみ言葉が語られ、聖書が解き明かされる。いわば光と暖かさを分かち合い、パンを分かち合い、み言葉を分かち合った。これが初代教会のすべてであり、まことであった。疲れた若者が、安心してぐっすり居眠りをしてしまうくらい、自分を手放して、ありのままで生かされている。パウロの「ここにこそ命がある」と言う叫びは、教会のもっとも本質を表した言葉ではなかったか。これ以上に安心の場所がどこにあるだろうか。

礼拝は、居眠りができる場所、しかも我知らず三階から下に落ちてしまうほど、ぐっすり眠ってしまえる、とルカが伝えるのは、実に興味深い。そしてその居眠りの中に「命がある」と告げられる。私たちの世界の向かうべき方向が、示唆されているのではないか。自分をまったく手放して、全てを委ねて眠ることのできる場所はどこにあるのか。

今日のテキストの掉尾は「大いに慰められた」という結びの言葉で終わっているが、これは直訳すれば「大きく呼びかけられた」という意味である。呼びかけられた、励まされた、その呼びかけや励ましによって、慰められた、ということである。常に神が大きく、親しく彼らに呼びかけてくださっているということである。かつても今も、それは変わりない。私のこと、あなたのこと、「忘れていないよ、大丈夫だ」と呼びかける神の言葉こそ、私たちの最も必要としている力ではないか。この青年の居眠りは、私たちの姿でもある。「ここに命がある」「生かされている」。ぼおとした居眠りの中でも神の命は働き、私たちは生かされるのである。

縁あって、わが家の住人になった猫は、人間は設えた居場所は気に入らないと見えて、自分であちらこちらうろつきまわって、ロフトの隅に置き畳が積んである場所に居場所を定めたらしい。部屋の中で最も高いところである。まるで「牢名主」のようである。そこでいつも安心したように寝ているが、自分のいごこちのよい場所というものは、やはり自分で見つけるのが、猫の習性なのだろう。そして人間もまたそうだろう。但し、猫は居眠りして階下に落ちるということはなさそうである。片や人間は、安心の居場所と思っても、その営みは、いつ落ちるやもしれない、「支えのない奈落のうえに、一枚の布をおいて座っている」(吉本隆明)ようなものかもしれない。詩編に「神は愛する者に、眠りを与えられる」と記されているが、御手が伸ばされていてこその、平安であるだろう。