村岡花子氏の本邦初訳で、この国の人々によく知られるようになった『赤毛のアン(原題: Anne of Green Gables)』は、カナダの作家L・M・モンゴメリが1908年に発表した長編小説である。このシリーズ3冊目の『アンの愛情』の中に、「ゴグとマゴグ」の名が登場する。アンは住み慣れたプリンスエドワード島をはなれて、大都会キングポートのレッドモンド大学に入学する。そしてとある友人と、小さな家を借りて一緒に生活しようという話になる。二人は「貸家」と看板が出ていたパティー家を訪れるが、その時に出会ったのが、暖炉の上に飾られていた「ゴグとマゴグ」であった。小説には次のように記される。
「二人の老婦人の後ろに、陶器製の白い大きな犬が一匹ずつすわっていた。体中に緑色の斑点がとんでいて、鼻も耳もみどり色だった。アンはたちまち、この二匹の犬のとりこになってしまった。まるで、パティーの家の守り神のようだと思ったのだ」。
この陶製の犬は陶磁器の産地で有名なスタッフォードシャーで多く作られたので、スタッフォードシャー・ドッグと呼ばれ、ヴィクトリア時代には、暖炉の上の置物として流行したそうである。しかし「ゴグとマゴグ」という名前を聞くと、犬の名にしても、「かわいらしい」よりも「獰猛な」という印象を受ける。確かに「泥棒除けのまじない」にはいいかもしれない。本気を出したら、犬は人間よりもはるかに強い運動能力を持っている。
そもそもこの「ゴグとマゴグ」の出典の起源は、エゼキエル書38~39章に語られる、「マゴグのゴグ」という人物に由来する。もう少し詳しく言えば、「マゴグ」という名は『創世記』のノアの箱舟の物語で、ヤフェトの子とされている。つまりマゴグはノアの孫にあたる。エゼキエル書38章では、マゴグは地名で、ゴグが個人名とされている。さらに時代を下って、ヨハネの黙示録20章では、ゴグとマゴグは、共に民族名に比定されている。
エゼキエルは、「ゴグ」をパレスチナの北方に居住する民族としてイメージしているようである。19世紀ドイツのフランツ・デリッチという神学者は「ゴグ」はリュディアの王ギュゲスがモデルではないかと推測している。リュディアはイスラエルの北方に位置し、古代のアナトリア半島で栄えた国である。エレクトロン貨という、世界最古の硬貨を鋳造したことでも知られている。確かに古代オリエント社会の中で、先進文化を育んだ国のひとつであったろう。
但し、エゼキエルは、地上に実在の民族、王というよりは、神話的・終末的な存在として象徴的に語っていると思われる。嵐のように強大な軍事力を有する王、ゴグが、全世界を席巻し、周辺の国々を滅ぼしつくし、激しく略奪を繰り広げる。さらにその魔手はイスラエルにも及び、これを襲い、奪い尽くそうとする。しかし、神ヤーウェは、ゴグの残虐な罪を問い、厳しい裁きを下し、自らの御手によって滅ぼされる。神に滅ぼされたゴグの軍勢は、自ら犯した罪に対する贖罪の生贄として屠られ、野生動物によってその死体が食い破られると告げている。実に生々しく、激しいヴィジョン(幻)である。
エゼキエル書38章以下の「マゴグのゴグ」を巡る記述は、「黙示文学」的な手法が用いられており、至る所におどろおどろしい雰囲気が醸し出されている。新約で黙示録を記したヨハネが、この文章に着目し、自著に翻案して利用したことも頷ける。しかし、この不気味なゴグについての描写を通じて、エゼキエルは捕囚されたユダの民に、何を告げ知らせたいのであろうか。
南王国ユダの人々は、バビロニアによって祖国を滅ぼされ、ソロモン王が築いた麗しいエルサレム神殿を崩壊させられ、自らは「捕囚民」としてバビロンに捕らわれて行ったのである。この出来事は、ユダの人々にとって「不信の行為」により、「神が顔を隠された」という出来事に他ならなかった(23節)。怨敵のバビロニア帝国はあまりに強大であり、その軍事力も財力、国力も、ユダの敵ではなかったのである。ユダにとっては、それはまるで伝説の「マゴグのゴグ」に等しいものとして、目に映ったことであろう。即ち、神ヤーウェの顔を避けて、自らの力によって、己の栄光を追い求めれば、却って神は、自らの顔を隠されるのである。神から目を反らし、己の姿を神とするなら、素より非力なイスラエルは、ひとたまりもない。神ヤーウェは、敵の手に渡される。しかしこの「捕囚」という「神が顔を隠される」という悲惨な体験を通して、「イスラエルの家はわたしが彼らの神、主であることを知るようになる」(22節)というのである。
なぜなら、「マゴグのゴグ」のように、今、全世界を恣にしているようなバビロニア帝国でさえ、神の御手が下される時、「お前とそのすべての軍隊も、共にいる民も。イスラエルの山の上で倒れる。わたしはお前をあらゆる種類の猛禽と野の獣の餌食として与える。お前は野の上に倒れる」(4節)のである。
イスラエル・ユダにとって、一番の危機は、周囲の大帝国の軍事力ではない。もはや神が我々を忘れ、御顔を隠され、捨てられる、という思いこそが、それなのである。カナンの土地も、神が約束された「乳と蜜の流れる地」であって、ひとえに神の恵みの賜物なのである。その恵みから離れれば、ユダの人々はもはや神の民ではなく、どににも何にもかかわりのない、無縁の者となるのである。つまり彼らのアイデンティティは、ただ神ヤーウェにあるのだから、それを失えば、ちりじりばらばらに離散し、民として消滅するしか道はないのである。
エゼキエルはこの危機の恐るべきことを、何よりも分かっており、その危機を乗り越えるために捕囚民に懇ろに語りかけ、励ましを与えたのである。大帝国バビロニアを前にして、全くたじろいでしまい、バビロンに同化してしまおうとする誘惑を跳ね返すのは容易ではなかったろう。しかし、「黙示」という表現によって、人々の心の深層に、ヤーウェの働きのヴィジョンを刻印し、それによって希望を注入しようとするエゼキエルの試みは、半世紀余りの後に開花するのである。現実に「マゴグのゴグ」もまた、イスラエルの丘の上に倒れるのである。エルサレム神殿は再建され、ユダの人々は、祖国に帰還するのである。
この章のエゼキエルの語る幻は、黙示的な文学表現である。文学が人々の心に希望を与え、望みを育む。現代人もまた、文学の力に、もう少し目を開くべきではないか。