「落ち着いた生活を」テモテへの手紙一2章1~7節

「美しい言葉」、と聞いて、皆さんは、どんな言葉を思い起こすだろうか。かつて某放送局が、各界の著名人350人に尋ねたところ、次のような回答が寄せられた。多く上げられた言葉を順に記せば、「ありがとう」「さようなら」「はい」「すみません」「おはようございます」「さわやか」「いらっしゃいませ」「おやすみなさい」「どうぞ」「いいえ」。どれも日常語である。「美しい」と言っても、滅多に使われない、特別な言葉ではない、ということか。今、生きて働いている言葉が「美しい」ということだろうか。

ある地方紙が、次のようなコラムを掲載していた。美しい言葉のやりとりがなくなったと憂いたのは昭和の評論家唐木順三だ。自由多弁の世を歓迎しながらも、その多くは利害得失を巡る欲求に根ざしたもので、強い言葉や大きな声の力で貫徹させる傾向が目立つと「美しい言葉」に書いた。強さや大きさは相対的なもの。双方が誇張した言葉を使えば「言葉は人から浮(うか)び上がって、ただ空(むな)しい響と化して宙に浮き、霧散してしまふ」といい、不信が公約や約束への信頼も失わせると嘆いた。(6月17日付「卓上四季」)

「安心・安全」がこの国の首長によって、繰り返し繰り返し語られる。それでその言葉を聞く側が、安心や安全の心、気持ちになれるかと言えば、皆さん、どうであろう。繰り返されればされるほど、却って不安や心配が増して行く、という事はないか。それはそこに事実や真実の裏打ちが感じられないからだろう。「その多くは利害得失を巡る欲求に根ざしたもの」という指摘の通りである。言葉は、利害得失のための道具ではない。人間が共に生きるための重要な通り路であろう。

今日はテモテへの手紙一2章から話をする。テモテ宛の2つの手紙、テトス宛の手紙は、パウロが2人の弟子に、教会運営上の指示を伝えた書簡として、古くから『牧会書簡』と呼ばれて来た。『牧会』とは、「牧師」の職務であり、日本語では、教会を羊の群れに喩えて、これを養い世話をすること、という意味の用語で表現している。他方、「牧会」は「ゼール・ゾルゲ」という言葉にも言い換えられている。「魂の配慮」「魂に心配りすること」、土台、人間の魂を養ったり、ケアしたりすることなど、同じ人間には到底無理なのである。ひとり一人の魂に、目には見えないが、神が確かに働いてくださる、その働きなしには、なされえないものである。

しかし何ほどか、そのお手伝いをすることは出来るだろう。それが「牧会」と呼ばれる仕事である。ところが、「人間には無理」な事柄をしようとするものだから、どうしても悩みや壁、自分の能力ではどうにもできないことが立ち起こって来る。パウロの弟子、テモテもテトスも同様であった。教会の務めを担う内に、どうにもならなくなってしまったのだろう。それを知った師のパウロが、彼らに助言する手紙を書き送った、という次第である。但し、テモテとテトスばかりではない。当のパウロもまた、何度も壁にぶつかったし、どうにもならなくなってしまったことが、何度もあったのである。そういう苦しんだからこそ、語れる言葉というものがあるだろう。

今「安心、安全」がしきりに強調されている状況である。政治家の言葉のみならず、私たち自身がこのことの大切さ、かけがえのなさを、もう一度見出したと言えるかもしれない。そもそも「安心、安全」とは、どういう状態を指しているのか。今日の聖書個所は、まさにそれを鋭く問題にしているテキストだと言えるのではないか。「安心、安全」な生活とは何か。

2節後半に、こう語られている「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」。「安心、安全」が担保されている生活は、確かにこの言葉に尽きているだろう。「お祭り騒ぎではしゃぎまわる、熱狂する、我を忘れる」では決してそれらは生まれて来ない。最近のニューズウィーク誌がこう記していた。総理は「安心安全な五輪」とくり返すが、日本国民が望んでいるのは「安心安全な日常」だ。安心、安全は私たちの日常の問題である。

但し、この節の翻訳には問題がある。「信心と品位」、こう訳すと、殊更に各人の人間性が問題にされる恐れがある。上品だ下品だ、正直者だ、嘘つきだ、誠実だ、不誠実だ等々。原語はどちらも、「礼拝」に関係する用語である。「礼拝に出席する、礼拝を守る」というあり方を示す言葉であるから、その人の信仰の度合い、つまり熱心か不真面目か、几帳面かだらしないか等の個人的資質は、まったく問題にならない。わたしたちは、ありのままそのままで神のみ前、主イエスのみ下に赴くのである。それが礼拝に出席するということである。ありのまま、そのまま以外であったら、取り繕いであり、神に一番の失礼である。

だから、すべての取り繕いから解き放たれ、神の前にありのままに受け入れられ、礼拝が守れるなら、そこから静かで落ち着いた、地に足の着いた、日常の平安と安心が生まれて来るだろう。確かにこのみ言葉は、新約の中でも美しい言葉のひとつとみなすことができるだろう。ではなぜ礼拝が、私たちに平安をもたらすのか。

1節にこう呼びかけられている「まず、第一に勧めます」、何がなくても、何はともあれ、「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」。「願いと祈りと執り成しと感謝」、これら全部、大きく言えば「祈り」を意味する用語なのである。しかしみな異なる語源を持つ用語であるところが、興味深い。古代から、信仰とは祈ることであると見なされてきたことの証である。

「願い」と訳されている言葉、元々は「欠け、欠乏、不足」を表す言葉が元になっている。「祈り」は文字通り、最も一般的な「祈り」を表す用語である。さらに「執り成し」は「たまたま出くわす」とか「出会い」という意味の言葉が元になっており、「思いがけなく、あなたとここでお会いできて、幸せです」というような心情を表している。そして最後の「感謝」も文字通りその意味である。感謝のない祈りはない。もし感謝がなければ祈りではない。まとめれば、ここで語られる「祈り」とは、祈りのすべての側面を語ってくれている。祈りとは、自分の欠けや欠乏、不足を思い、嘆きつつ、他に行く宛もなく、寄る辺もない時に、向こうから主イエスが、わたしの所にお出でくださり、出会われる、その不思議さと幸いを思い、感謝する。祈りとは、それ以上でもそれ以下でもないだろう

 

「人に言えば愚痴になることも、神に申し上げれば、祈りとなる」。愚痴もまた「祈り」となれば、神がお聞きくださる言葉となることを思う。

かつて、日本の7歳の少女がローマ教皇に問うた。「なぜ子どもたちがこんなに悲しまなければならないのですか」。「答えはないかもしれませんが、大切なのは神があなた方のそばにいるということ」。東日本大震災直後、イタリアのテレビで教皇が視聴者の質問に応じた。宮城県の被災地を取材した評論家の立花隆さんは、記事でこの問答に触れた。防災の検証を促すとともに哲学的な視点で震災を捉える。「私も問い続けたい。なぜこれほど多くの人が死ななければならなかったのですか? 答えは見つからないかもしれないが、問い続けることが大切だ」と記した。

祈りは、「神への呼びかけ」であるが、同時に、神からの言葉を聞くことにつながる。そして神からの問いかけをも、そこで受けることになるだろう。祈りが、「欠乏、出会い、願い、感謝」、つまり「わたしのすべて」を表明であることを深く心に留めて、歩みたい。包み隠さず、すべてを明らかにできる時と場を持っていることは、それこそ地に足の着いた、落ち着いた生活の基であろう。