祈祷会・聖書の学び ガラテヤの信徒への手紙2章1~10節

間もなく3月11日を迎える。東日本大震災の日から、11年目を迎えようとしている。「十年はひと昔」と言われるが、この十年余に復興整備は進展し、新しいインフラが敷設され、災害に強い町づくりが工夫されてきた。ところが、肝心の人間の問題はどうなっているのか。「日にち薬」と言われるが、時の経過とともに、悲しみも嘆きも、繋がりもすべて忘却という形で収れんしてゆくものなのか。

『花は咲く』、この復興支援ソングが生まれたのは、震災の翌年、それから1年半で、この歌は国内はもちろんのこと、世界中に広まった。「花は 花は 花は咲く わたしは何を残しただろう」と繰り返し歌われる。この「花」とは、「桜」のことであろう。一年に一度、毎年毎年、春が巡る度に忘れずに、桜は満開の美しい花を咲かせ、そして散って行く。

「ことしも生きて/さくらを見ています/ひとは生涯に/何回ぐらいさくらをみるのかしら/ものごころつくのが十歳ぐらいなら/どんなに多くても七十回ぐらい/三十回 四十回のひともざら/なんという少なさだろう」(茨木のり子『さくら』)

毎年の開花と散華の繰り返しであるが、当の花自身の気持ちはさておき、その花を見る私たちのこころに、鮮やかな春の心象風景を刻印する。桜は私たちに「何かを残す」のである。ならばひとり一人の人間はどうか。何を残すのか、何を残せるのか。

今日のテキスト中で「自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないか」とパウロは表白している。使徒言行録9章によれば、キリスト者迫害の意気に燃えてのダマスコ途上で、突然、復活の主イエスにお会いし、それまでの人生がひっくり返されたパウロである。ダマスコ在住の信者、アナニアの手でバプテスマを授けられた後、その町で何らかの「宣教活動」に携わったようであるが、詳細は不明である。おそらくアナニアの属する教会の働きと無関係だったとは考えにくい。しかし程なく、ユダヤ教の人々から敵視され、生命を狙われるまでになったために、彼は故郷のタルソスに引き籠ったようだ。

しばらくの間、パウロは公の活動からは身を引いていた。ユダヤ人たちの凶刃を恐れたからであろうし、それ以上に、何の後ろ盾を持たない彼にとって、教会の人々と親しく交わることも、困難であったろう。パウロを取り巻く二重の壁を突き崩す働きをしたキーパーソンが、バルナバであった。使徒言行録11章にこう記されている。24節以下「バルナバは立派な人物で、聖霊と信仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それから、バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、 26見つけ出してアンティオキアに連れ帰った。二人は、丸一年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた」。バルナバは通称で、「慰めの子」を意味するが、彼はキプロス島生まれのユダヤ人で、本名は「ヨセフ」と言い、使徒たちから非常に評判の良い人であった。おそらく彼は人あたりや、面倒見の良い、好人物だったようで、わざわざパウロを捜しに故郷まで足を延ばし、彼に会い、説得してアンティオキア教会に連れ帰ったという。もちろんパウロを連れて行けば教会内でも彼の処遇を巡って、いろいろな議論が生じたことであろう。それを丸く収めて彼の立ち位置を定め、宣教者としての道を開いたのは、バルナバの人徳のなせるわざである。今も教会には、このバルナバのような信仰者が与えられているのである。何という恵みであろうか。バルナバなしにパウロはあり得なかったが、後にこの二人は、それぞれに別の道を行くことになる。それもまた人間の業というものだろうか。

バルナバの仲介によって、パウロはエルサレム教会の主だった人々、主の兄弟ヤコブや、シモン・ペトロ、ヨハネ等と会って、一応の面識はあったが、公的にエルサレム教会の使徒や教会員と親しく交わり、彼の働き方が議論され、公認されたのは、「その後14年たってから」と回顧しているように、大分、後のことである。それまではアンティオキア教会の協力教師として、バルナバの指導の下に労して来たのだろう。異邦人伝道に優れた働きの実を上げ、エルサレム教会を再訪したという次第である。これには総本山も一目置くしかなかったろう。

しかし実績も経験も積んだパウロが、ここで「自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないか」と表白したのは、その心情を察するに極めて興味深いと感じられる。パウロは決して自分の行って来た手のわざを、「無駄」だとは思っていないだろう。アンティオキア教会ももちろん、彼の働きを評価している。それでも「他の人々」とりわけ、ユダヤ人教会の人々の目からすれば、どう映るであろうか。「信仰」と「律法」を巡る議論には、非常にナイーブな問題が付きまとっているのである。そして彼の神学は、まさに「信仰のみ」という点において、鋭利な主張を突き付けるのである。そしてそれは彼の実存の真から生まれてきたのである。5節「福音の真理が、あなたがたのもとにいつもとどまっているように、わたしたちは、片ときもそのような者たちに屈服して譲歩するようなことはしませんでした」。「割礼の強制」をする一派について、パウロは激しく抵抗する。

14年後のエルサレム教会再訪の一番の目的は、この点について使徒たちと議論し、決着をつけることだったのだろう。6節「おもだった人たちからも強制されませんでした。――この人たちがそもそもどんな人であったにせよ、それは、わたしにはどうでもよいことです。神は人を分け隔てなさいません。――実際、そのおもだった人たちは、わたしにどんな義務も負わせませんでした」。エルサレム教会の使徒たちは、寛容で柔軟な姿勢を示したことが分かるが、やはり「律法」への姿勢には、微妙な心情が付きまとっており、「異邦人への使徒」という立ち位置で、パウロの働きが公認された次第が伺える。

ここで取られた方法は、役割の二分化であり、いわば対症療法的解決であるが、エルサレム教会の主だった者たちから右の手がさし出され、一応の決着を見たのである。しかしこの協調の姿勢の根本が、10節に明らかにされている。「ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です」。この了解は、パウロ、バルナバ、そしてヤコブ、ペトロはじめ、すべて教会に集う者たちが、信是として来た事柄である。それは主イエスの「神の国の宣教」の根本にある姿勢であり、主の働きの現実に他ならないからである。主イエスの歩みに従う他に、教会の取るべき道はないのである。