祈祷会・聖書の学び コリントの信徒への手紙一9章19~27節

今日は、「灰の水曜日」で、この日から今年の受難節を迎えた。これから日曜日を除く40日の間、主イエスの十字架への歩みを偲び、新たに心に刻む時を守ることになる。カトリック教会等では、この日に特別なミサを行い、前年の「棕櫚の主日」(受難週聖日)に飾られた「しゅろ」や「なつめやし」の枝を燃やして作った「灰」を神父が取って、信者の額に十字の印を描く習慣がある。歴史的には、教会から離れた人が悔い改めて、教会に戻る時に、灰を用いることがあり、すれに4世紀には受難節と結びつけられていたようであるが、この儀式の起源については、はっきりとは分からない。

旧約聖書では、「灰」は「あく」としてものの洗浄のために用いられたことから、宗教的な「清め」の観念を結びついて、それを身にまとうことで「悲嘆」や「悔恨」のしるしとされたのは、自明のことであろう。さらに「受難節(レント)」も、そもそもユダヤ教の「過越祭」の準備期間の40日間(四旬節)に由来するもので、主の十字架を想起し、記念する期間もまた、ユダヤ教の伝統に密接に結びついているのである。

そもそも初代教会は、自らを独自な宗教組織としては理解しておらず、ユダヤ教のブランチとして考えていたのである。そのことを「受難節」の背後にも読み取ることができるだろう。「新しいぶどう酒」を自負し、「ファリサイ派にまさる義」を標榜した教会もまた、自己の置かれた世界に対して、「何でも反対」の態度をとった訳ではなく、却って「受け継ぐべきもの」と「変えるべきもの」を試行錯誤しながら吟味し、自らの道を歩んで行ったといえるのである

「郷に入らば、郷に従え」という諺がある。中国語のことわざ「入郷随俗」が由来とされる。中国禅宗の歴史書『五灯会元』にある「且道入鄉隨俗一句作麼生道」の句がその語源となっているといわれる。英語では「ローマにいる時には、ローマ人のようにしなさい」のように、「ローマ」が言及されるが、これは4世紀のミラノ司教、アンブロシウスに帰せられるラテン語の成句「ローマにありてはローマ人の如く生き、その他にありては彼の者の如く生きよ」が英語に訳されたと考えられている。この言葉は、老アンブロシウスがアウグスティヌスに書き送ったものと伝えられるが、まだ未熟な弟子に教え諭す、老練な師の姿が髣髴とされる。

そこで今日の聖書個所、コリント書簡一9章だが、19節から23節のひと段落は、一口で言えば、パウロ流「郷に入らば郷に従え」的訓示であると言えるだろう。おそらく「ローマに入らば云々」を語ったアンブロシウスは、ここを参照したことだろう。「ユダヤ人には、ユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように、弱い人に対しては弱い人のように」と言い、ついに「すべての人に対してすべてのものになった」と使徒パウロは主張しているのである。ここで「なった」という言葉で意識されている事柄は何だろうか。

こんな問いがある。「あなたの前に、とても無礼で、横柄な態度を取り、言葉も乱暴な人がいるとする。あなたはこの人に、どんな態度を取るか」。「自分もまた無礼な態度で接する」か、または「礼儀をもって接する」のか、どちらか。もし「相手が無礼なのだから、こちらも無礼になってよい」と考えるなら、それは自分もまた、その人と同じ「無礼な人」になってしまう。「無礼には無礼」、そこまで相手に合わせて、自分をみすぼらしく貶めなくてよいのである。「ようになる」とは、そのように相手と同等になり、同じ振る舞いをし、同調し、妥協することを意味しているのではないだろう。いつも目の前に相手に同調し、迎合し、「よいしょ」ばかりしていたら、疲れるし、面白くないし、自分自身を失うことになりかねない。

但し、パウロはここで「人間関係」ではなく、「宣教」について話をしているのである。政治や商売の話なら、「蛇の道は蛇」ということで、それなりの上手なやり方、立ち回り方というものはあるだろう。いわゆる経営や営業には、「秘訣」があり、それをまったく無視したら、立ち行かない。しかし、そもそも主イエスの福音は、「迎合」や「妥協」や「取引」によって伝えられ、受け入れられるものなのか。お金をつぎこめば上手くいく、マニュアル通りにやれば大丈夫、計算ずくで人を動かせば、何とかなる、のだろうか。

戦国時代にこの国にやって来た宣教師たちが、まず真剣に取り組んだことは「日本語を習得すること」であった。アルファベットを用いて日本語を記し、日本語習得の教科書とされた『伊曽保物語』は、どれだけ彼らが極東の島国に住む人々と、心を通わせコミュニヶ―ションを取ろうとしたか、その熱い思いが込められているように感じられる。パウロが語る「すべての人のように」とは、「コミュニケーション」に関わる事柄への言及ではないのか。英語の「エンパシー(empathy)」は「共感」と訳されるが、語意を調べてみると、他者の立場に立って、その人だったらどう考えるか、どう感じるかということを「想像してみるアビリティー=能力」だと定義されている。つまり、「エンパシー」は、共感だけではない、他者理解という意味がある。自然に湧いてくる「共感」とは全く違う。この語をブレイディ・みかこ氏は、お子さんの宿題の作文から引いて、「誰かの靴を履いて歩いてみる」と表現している。パウロの言う「ように」とは、まさに「エンパシー」が問題にされているのではないか。

今日の聖書個所の後半に、パウロは「競争で賞を得るように走るべき」ことを勧めている。勝利至上主義の勧めのように聞こえるが、この「賞」もまた「節制」結びつけられて語られていることに注意したい。つまり「賞」の背後にある「プロセス」の方が、より重要なのだという。こういう話がある。「かつて50代の男性が東京マラソンに参加したときのこと、もうすぐゴールの直前、41キロ付近を走っているとき、見物人や警察官があわただしく動き回っている場面に遭遇したという。彼はすぐにレースを中断、そこに近寄った。意識不明で倒れた人がそこに横たわっているのを見て、自分が消防士で資格のある救護士だと告げ、蘇生作業を開始した。「AED」を操作して、心臓機能を回復させることができ、しっかり呼吸ができるのを見届けてから、コースに戻ってゴールインしたという。そのためタイムは大幅に遅れ、もしかしたら時間切れで完走できなかったかもしれない中、ゴールしたこの人の顔は、満足感と喜びに満ちていたという。パウロの言う「ように」、つまり「共感」なしに、まことの「賞」はないのである。